第二章「コミュニケーション・メディア」第6講義「電子メディア補遺。象徴的に一般化したコミュニケーション・メディア」

  • p.185 タルコット・パーソンズの行為システムの一般理論
  • p.187 パーソンズにおける「象徴的」と「一般化」の含意
  • p.189 パーソンズにおける「合理性」の問題
  • p.191 SGCM の理論:歴史的予備考察
  • p.197 SGCM の理論:条件付けと動機の関連の結合と分化
  • p.199 SGCM の理論:内的帰属と外的帰属
  • p.201 SGCM の理論:メディアの四分類([1] 真理、[2] 愛、[3] 所有と貨幣、芸術、[4] 権力)
  • p.207 SGCM の理論:まとめ

p.201 SGCM の理論:メディアの四分類([1] 真理、[2] 愛、[3] 所有と貨幣、芸術、[4] 権力)

真理のゼマンティクにおける「体験への還元」。

構築主義以前の古典的な理解に従うならば、真理が関わるのは、事実と合致しているか・していないかのいずれかである何か ということになるでしょう。それは体験を通じて、つまり外的選択を通じて、システムにもたらされます。もちろん探求がなされなければ真理は生まれません。そして探求のためには行為が必要です。しかし、にもかかわらずこの行為はその成果に影響を与えてはならないのです。

実験は再現が可能であるになされなければなりません。理論は、誰もが同じ関心をもち、同じテーマに取り組むならば、同じ事柄を理解できるように定式化されなければなりません。

行為の要素を中立化することは、古典的な方法論上の要請であり、それによって体験だけが残ることになります。もちろん[マトリクスにおける alter ego と ego の]両方の側にです。… 以上のような理解に従うならば、真理とは次のような組み合わせによって規定されるのではないでしょうか。すなわち、

  • 一方の 自我* の体験がもう一方の 自我 の体験になる、しかも、
  • ありそうにない体験であってもそうなる

という状況です。

ここでは、話が長くなってしまうので立ち入りませんが、真理の代わりに価値という言い方をすることも可能だろうと私は思います。これはパーソンズ学派の人びととさまざまな機会に話し合うことを通じて学んだ考えです。パーソンズの場合、ここで述べたようなかたちで真理が登場することはありません。パーソンズにいわせれば、私が考えているようなものは価値だということになるのでしょう。なぜなら、価値は人が作り出すものだとは考えられていないからです。価値は決定の結果ではなく、決定の前提なのです。人は勝ちに拘束されていると感じますが、その価値とは外からやってくる何ものか、みずから生み出したものではない何ものかなのです。

* これたぶん、「Ich」を「わたし」って訳してるよね?