諸メディアの比較観点のヴァリエーション。
『社会の社会』(1997)第2章XI:http://d.hatena.ne.jp/contractio/19970129#p211
p.211 [1] 二項性
p.214 [2] 道徳的観点の中立化
p.216 [3] メディアの自己適用[=再帰性]
p.219 [4] 共生的メカニズム
わたしが[この 共生的 symbiotisch メカニズムという術語で]問題にしたいのは、人間の身体、あるいは一体とみなされた身体と意識、つまり人間の有機的-心理的姓名という事実性に対するコミュニケーション・メディアによる言及が、どのように統制されているのかということです。わたしたちは生きた人間であるという事実にまったく言及することなく、あるいはそういう含意をまったくもたずに、メディアを用いるということはありうるのでしょうか。[既存の]コミュニケーション・メディアの理論は、そのことへの言及が重要な役割を果たすようには作られていません。コミュニケーションは、いわば人びとの頭上を通過して、あるいは頭を通り抜けて、独自の怪奇的ネットワークに即して進行するものとみなされています。しかし、だからこそ、わたしたちは実際に存在し現に生きており、ときおりコミュニケーションとは関係ないことを考えてしまったりもするということを、コミュニケーションそのものにおいて示すなり、示唆するなりといった必要があるのではないかという疑問が[ルーマンには]生じるのです。すこし違った表現をすれば、つぎのようにいうこともできるでしょう。すなわち、
- 社会的過程において身体が重要な役割を果たしていないとき、その社会的過程への身体の包摂はどのように統制されるのか。
- コミュニケーションが血液のように さらさらとは流れ図、思念のように次々と湧き上がるわけでもなく、理解可能であるために一定の秩序に従って進行しなければならないとき、コミュニケーションへの身体の包摂はどのように統制されるのか、と。
もし、これらのオートポイエーシス・システムの分離を前提とするならば、それらの関連はコミュニケーションそのものにおいてどのように形成されうるのかという問いに直面することになります。… こういう問題を考える時たあちに思いつくのは、コミュニケーション・メディアが身体への特別な言及をともなっていること──もう少し厳密にいえば、コミュニケーションが身体によって刺激を受けることになるポイントへの言及をともなっているということ──は明らかだということです。
- たとえば真理に関する問いであれば、知覚が存在するとわたしはいうでしょう。…
- [愛]
- [所有物と貨幣]
- [権力]