『社会システム論と法の歴史と現在―ルーマン・シンポジウム』(1991)

1988年来日時の討論。

II「社会システム論と法の現在」(補充討論)

p. 213-216

  • 馬場: 近年日本でもルーマン先生の『権力』が翻訳されまして、それに対する次のような解釈とか批判がある訳ですね。つまり、ルーマン先生は権力というものを物理的暴力によって基礎づけようとしたけれども、それに失敗している、と。ともうしますのは、ルーマン先生は権力は暴力によって基礎づけられると主張しておられる一方で、暴力というのは権力の中で初めて可能になるという循環論を使っておられるからだという批判があるからです。…
  • ルーマン: ヨーロッパでも同じような論議がありました。そこでの中心的問題は、権力というのが、脅威あるいは損害を与える可能性といった否定的サンクションで定義されるものか、それともあらゆる活動が権力であるのか、という点です。…
    • [権力が概念を]否定的サンクションに限るならば、権力の概念は規則や法によって限定され条件付けられます。さらに否定的サンクションから出発するならば肉体的暴力が決定的手段となります。つまり、たとえば各人がピストルを持ち、いつでも発泡できるといったような、肉体的暴力が錯綜している場合には複雑な権力行使の条件は導入できません。これはマックス・ヴェーバーのかんがえでもありますが、こうした場合には複雑な権力行使の条件は導入できません。このような関連で権力を肉体的暴力として把握するのは意義のあることです。
    • 愛と性についても同じようなことが言えます。性がひとりの相手に集中されなければ愛もありません。
    • この現象は、意識化された、あるいは無意識の権力行使の問題と関連しています。たしかに人は無意識に影響をあたえることが出来るでしょう。… しかし権力を、脅威を与えるといったような否定的サンクションに基づいたものと考えるならば、これは常に意識あるいは明確なコミュニケーションを通じて生じます。…
  • 馬場: 権力を肉体的暴力とみなしているのは誰でしょうか。ルーマン先生でしょうか。それとも権力者自身でしょうか。
  • ルーマン: 集中化した暴力としての物理的暴力は組織を必要とします。たとえば警察などです。ヨーロッパの理論では平和もそうです。領土の平和は守られていますが、貴族全員が自分の城塞や軍隊を持っていた訳ではなく、国家レベルでの組織がある訳です。マックス・ヴェーバーも物理的暴力自体のとは言っていませんが、物理的暴力の行使決定の集中を指摘しています。彼は物理的暴力のカゼルニールンク(兵営入り)という言葉を使っています。物理的暴力はいつどこでも行使されてよい訳ではなく、合法的にそれを決定することの出来る装置を通してのみ行使されるというのです。

p. 233

  • 馬場: メディアと共生システムとの関連について質問します。いわゆるメディアとそれから共生メカニズムの関係についてお尋ねしたいんですけれども、それを、要するに、ルーマン先生が言われる機能システム間の関係として捉えてよいのでしょうか。つまり、レゾナンツという言葉で読んでもよいのかどうか、ということです。
  • ルーマン: どうしてこの質問が出てきたのかよくわからないのですが、レゾナンツというのは非常に一般的な概念で、あるシステムの環境に対する、そのシステム自身によって規定された反応の仕方を述べているに過ぎません。…
    • それに対してメディアとシステムとの関係や共生メカニズムは もちろんレゾナンツとして理論的に表現することはできますが、これは非常に特殊な場合です。つまり、コミュニケーションの蓋然性において身体の関係を考慮外に置けるかが問題となって来ます。もし書物の印刷がある役割を演ずるとしたならば、身体がもはや何の役割をも演じなくなる、ということでもあるからです。
    • そうすると恋愛と性、貨幣と欲求、権力と物理的暴力などにおける身体の関係は特殊化されると言えるのではないでしょうか。これは経験的に示すことができます。
    • しかし、これは現代社会は身体的言語を必要としないのか、という議論と関連する問題でもあります。これについてドイツでは、身体の喪失といったテーマでの議論がすでになされています。この[共生メカニズムの]理論はこの風潮に対抗するものです。
    • もちろん、レゾナンツの条件ということもできますが、理論的には異なった次元になります。