X SGCM 分化

ここに「コミュニケーション過程の自己観察の形式」という論点を加えることで、特殊化・分化を導ける。

  • 1) ダブル・コンティンジェンシー: alter ego / ego
  • 2) 〈体験/行為〉という帰属の形式: 情報(体験)に重点を置いた帰属と伝達(行為)に重点を置いた帰属。

 象徴的に一般化したコミュニケーションメディアが分化するためには、

  • 準拠問題〔は 何なのか〕と
  • 帰属の布置とが〔そして、前者のそれぞれが後者のどこに位置づけられるかを明らかにすることが〕

必要になる。象徴的に一般化したコミュニケーション・メディアが成立してきた文脈は歴史性を有しており、また全体社会に依存してもいる。いま述べた点は、特にこの事態を説明してくれる。また同時に、準拠問題と帰属の布置とのこの種の収斂が(どんな理由からであれ)生じることがなかったとしたら、メディアは成立し得ないという点も明らかになる。特殊宗教的なコミュニケーションは法外なほど強く要請されてきたし、また〔実際に〕宗教は(たとえば禁欲と《現世拒否》によって仲立ちされて)分出を遂げてもきた。にもかかわらず宗教のコミュニケーション・メディアが形成されるに至らなかったのは、その理由からであると推察できる。[p.381]

真理メディアにおける「体験への還元」

p.381-。

 真理について語られるのは、情報の選択が関与者の誰にも帰属されない[〜誰の「行為」ともされず・誰もが「体験」するのみである]場合のみである。真理は外的な選択を前提とする(…)。外的な選択へと縮減されているということから明らかになるのは、真理というこのメディアは 多様な意見を許容しないという点である。したがって、ある言明の真理内容を、関与者のうちの誰か一人の意志ないし利害関心へと還元することはできない。できるとすれば その言明は他の関与者たちに対しては拘束力をもたないということになるだろうから。セカンド・オーダーの観察の水準へと帰還する場合でも、生じている事態を行為によって変形することは放棄されているとの条件がつく(ただし当然のことながら、行為を体験の対象として主題化することが排除されるわけではないし、研究へと特殊化された行為が放棄されるわけでもない)。理論的一般化と方法論上の規定という巨大な装置がもつ意味は、研究の結果に対する行為の影響を中和するということにある。さもなければ結果を真理として提示することはできないだろうからだ。あるいはこう言ってもよい。驚かせる、馴染みのない、とまどわせる知を行為によって導き入れ、それを受け入れるように圧力をかけるのを容認するとの話になれば、恣意的なことが推し進められてしまうだろう、と。そうなれば、〔真理〕メディア特殊的な条件付は放棄されざるをえなくなるだろう。したがって、体験へと縮減するということは、さしあたっては意外に聞こえるかもしれないが、許容される可能性を大幅に制限するという効果をもっている。それによって、きわめて多様な条件づけを行うための出発点が得られるのである。

→参照:『社会の科学〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)』第3章III の「体験の還元」