XI 構造

選好コードの特性に基づく諸メディアの比較。

1992年講義では6点比較:http://d.hatena.ne.jp/contractio/19920129#p5
まぁ、順番含めて基本的には同じストーリー。
『社会の社会』1997 ch.2 XI1992年冬講義(第七講義)
1 選好コードの特性1: 技術化、プログラム、メディアの指定、操舵メディア、現実の二重化とコードの二値性、メディアの技術化、第二コード化(ex.経済:貨幣による所有の、政治:法による権力の)と技術化不可能性(ex.愛、芸術)、時間の多様化 1 二項性
2 選好コードの特性2 2 道徳的観点の中立化
3 過程としての再帰性 3 メディアの自己適用[=再帰性
4 〈一次の観察/二次の観察〉の分化: メディアにおけるあらゆる条件付けは 二次の水準において設定されねばならない。メディアの普遍性と限定性
5 プログラム
6 共生のメカニズム: (コミュニケーションが受ける身体からの刺激を表現する)共生のシンボル、メディアの「リアル・アセット」(パーソンズ)、共生シンボルにおける〈使用可能性/攪乱〉のセット、自己充足の禁止、(共生的シンボルを介した)メディアの組織への依存 4 共生的メカニズム
7 メディアに対する信頼(インフレとデフレ): 動機付けの「過大な(過少に)成功」の問題は、(現物担保ではなく)「流通に対する信頼」のうちにある。 5 メディアのインフレとデフレ
8 メディアのゼロ記号(排除の包摂): 中央銀行の信用、権力におけるゼロサンクション、記憶されるべきものの選択、愛の継続的テストの回避
9 システム形成の触媒としてのメディア: メディアの循環(=一度達成された選択を、さらに続けて用いていくこと)、コード化・典型的プログラム・コードのためのゼマンティクの事前発展 6 メディアによるシステム形成の可能性


エスノメソドロジーについて。p.421
また言うてはるわw

3 象徴的に一般化されたコミュニケーションメディアは、コード化されるということのみによってもすでに自己言及的に構造化されており、作動の閉じられた連環として分出していることになる。そのことと、過程としての再帰性[=過程的自己参照]とは区別されねばならない。後者が見出されうるのは完全に発達したメディアすべてにおいてなのである。通常のコミュニケーションからしてすでに再帰的である。コミュニケーションをそのコミュニケーション自身に、また自身の帰結に適用することが出来るからだ317。いいかえれば通常のコミュニケーションは、自分自身を再生産する自ら生み出したネットワークの中で自己を方向付けていくのである。

317 いわゆる《エスノメソドロジー》は特に、この点に関心を抱いてきた。そしてこの関心に導れた研究によって明らかにされたのは、
  • [1] そのような再帰性は それほどしばしば用いられえないという点、
    また特に、
  • [2] 最終的な根拠を見出すために再帰性を用いることはできないという点
だった。《自明視すること taking for grounted》は不可欠なのである。これに関しては
  • Chua Ber-Huat, On the Commitments of Ethnomethodology, Sociological Inquiry 44 (1974), S.241-256
を見よ。それに対してわれわれが明らかにしようとしているのは、
  • 象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが分出することによって何が獲得されるか
ということなのである。

ここで比較されているのは、ルーマンの謂う「過程的自己参照*」と、ガーフィンケル&サックスの謂う「定式化実践**」。

ガーフィンケル&サックスの主張を ルーマン語に翻訳すると、

  • 過程的自己参照も、基底的な[=オートポイエティック]な作動として生じる

となるだろうが、

ちなみに [1] [2] ともに、ガーフィンケル&サックスの主張の要約として適切なものだろうと思われる

ルーマンはその主張自体には同意した上で、それに加えてなにか別のことも言いたいのだ、と言っている(のだが、これ、こういうかたちで違いを強調すべきことなのかどうか)。