影響の一般化

せっかくひさびさに再読したので、ついでのメモ。
「影響(力)」と「権力」は、もちろん近接した概念ではあるが、権力を論じたこの小著の転回点(第5章)のすぐ後で、「影響(力)の一般化」に言及されるのは、影響と権力が「よく似ているから」ではない。その逆、つまり、「権力」が、影響力の一般化から直接に導き出せるようなものではない、ことを指摘するためである。すなわち:

権力という特別のコミュニケーション・メディアが自立していくと、行為に対する影響力は、動機の一般化のこうした初発条件からいまや多かれ少なかれ切り離され〔て技術化して〕ゆく。権力は、影響力一般よりもずっとはっきりと、一定の動機的な諸前提から自立することが出来る。[p118]
それはいいとして、問題はその先にある。なるほど、
ある権力コードが自立化すると、そこでの影響の諸家庭は、それ以前の時間的・事項的・社会的な一般化にみられた、あまりにも具体的な歴史的源泉からある程度まで独立することになる。[p.119]
云々、と語ることはできる。しかし、
これだけではまだ、これに応じた行為の諸関連が現実に形成されるためのその他の諸前提については何事も言われていないし、こうした諸関連の形成がありそうになるための諸前提についてすら、何もいわれていない[p.119]
のである。そして、驚くべきことに──というか当然のことなのだが──、ここで議論はすぐに「歴史」へと回付される:
視線を特定の歴史的な状況に狭めないまま、この総体を描き出すことは出来ない。権力は、(たとえば、その力だけがあたかも自己貫徹の原因であるかのように)それだけですでに自己実現が出来るような十分な条件を備えているのでは決してない。〔‥〕 より抽象的で、より給付能力のあるメディア・コードの発展と制度化はいかなる社会構造的な諸条件のもとで行われるか、ということを説明しようとするときには、むしろ進化理論とシステム理論にもとづいた根本的な分析が必要となる。[p.119]
ここで、1章から4章までの「現象論的」な記述──メディア、行為の連関形式、コード機能、強制メカニズムなどなどについての、「モデル論的」に読むこともできそうな記述*1──がひっくり返される。
「権力コード」が「影響力の一般化」と地続きであることに疑問はない。が、「権力コード」の登場は、「条件を与えれば」おのずと(一般化された影響力という「背景」から切り出されて)発生するような──したがって、「モデル理論」を構成すれば論じることの出来るような──プロセスではない。少なくともルーマンは、そうは考えていない。そうではなく、それは偶発的な事情のもとで・歴史的にたぶん「一度」だけ生じた(言い換えると、非常に前提の多い)、その意味でまさに進化的なプロセスだと考えられているのである。だから、歴史的記述抜きに──言い換えると事実性の水準の記述抜きに──、コミュニケーション・メディア/メディア・コードについて語ることはできない。

もちろん、コミュニケーション・メディアを理論的に前提としたうえで、コミュニケーション・メディアをラクティカルに前提にして暮らしている我々(=素朴で実践的な社会学者homo sociologicus)が、どのように「実践しているか」の記述を行うことはできる(はずであり、またやらなければならない)。
 が、その方向を狙った「適切な記述」すら、現状では、「ルーマンに依拠した文献」の中では、行われることがまれだ、と私は思う。それはそもそも、ここで直面している(社会学的な)課題がどんなものであるのかが、それ自体主題的に論じられ・扱われていないから、ではないのか。──私にも、まだてんでわかってませんが(w さて、「なにをどうすれば」いいんでしょうねぇ。

この項続く

*1:そして実際多くの論者によって、そのように──勘違いされて──扱われてきた記述。たとえば、『社会学評論』(2002年、53(3))における、木前利秋氏による『意味の歴史社会学』に対する(ひどい)書評がその例だが。