談話分析/言説分析

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040419#c
コメント欄に質問があったのでぐぐってみるテスト。両方でヒットするググルさまのキャッシュ例:


■批判的言説分析の可能性
 以上のような仮説を手がかりに「健康の批判理論」は、健康言説の力を見極めていかなければならない。言説の類型もさまざまであり、語られ方そのものの多様性にも注意しなければならない。この作業を経験的な手法で実証するのが「言説分析」(discourse analysis)である。ただし、漠然と「言説分析」と呼ぶと、言語学において「談話分析」と訳されて会話の分析技法として紹介されているものもふくまれるので、これらと区別する必要がある。もちろん、問診の分析や医療スタッフ間のコミュニケーションの分析、そして健康に関する人びとの会話を分析するさいには有効な方法であるが、メディアや専門家や政府機関をエージェントとする言説を分析対象とすることの多い「健康の批判理論」と親和性の高い手法として考えられるのは、なかでも「批判的言説分析」(critical discourse analysis)と呼ばれるものである。
【ソキウス】
いやー。しかしつくづく、社会学者さんは「批判的」というコトバがお好きですなぁ。
でも、いったいどういう意味なんでしょう。私、理解できなくてつまづくことがおおいんですが。
社会学者さんたちにおける「批判的」の語用は、それ自体が分析に値する社会的事象のひとつだと思われます。(事例の集積、してみようかしら。。。)


    • オプヒュルス先生が研究の方法としてとっているという“ディスクール分析”というものについて、もう少しおうかがいしたいんですが。文学、メディア、大衆文化など、非常に幅広い領域を視野におさめるための方法ということですが、具体的にはどういうことをするのでしょうか? ディスクールという語、ドイツ語ではDiskursですが、現代の人文科学では良く使われる言葉ですね。しかし、非常に意味が広いです。辞典を引いてみますと:
      ディスクール 〔仏〕discours 〔独〕Diskurs 〔英〕discourse もともとは方法的に進行し、各部分から全体を築き上げる思考ないし発話のことで、直観的・直接的な知に対立する。デカルトの『方法序説』ルソーの『人間不平等起源論』などのように、かつては論著の表題にも用いられた。現代では、フーコーが「言説」、ハーバーマスが「討議」の意味で使用するのが目立つ。(『岩波哲学・思想辞典』1998年、1109頁)
      というように書かれていますね。“ディスクール分析”というのは、フーコーの意味のディスクールに関係しているのでしょうか。
  • オプヒュルス: そうですね。でも、フーコーにとっての“ディスクール”はそれぞれの学問領域に限定された、いわば言説の「閉じた」システムでした。それに対して、私のやっていることは、厳密に言うと“インター・ディスクール”と呼ばれる方法なのですが、これは「開いて」いるんです。学問の例は分かりやすいのですが、政治学でも、経済学でも、あるいは生物学でも、それぞれに専門的な言葉使いがありますね。ところが、これらが別の学問領域でも、ある種のメタファーとして用いられることがありますね。生物学の言葉が、経済学の世界で比喩として用いられるとか。こういう現象を“インター・ディスクール”的と学問でなくても、具体的にはマスメディア、文学、宗教、それからマルクス主義批評も、言語の「制度」として見た場合、ある程度までインター・ディスクールが見られます。簡単に言えば、インター・ディスクールの分析は、メタファー(隠喩)の分析だとも言えます。

上智大学>文化>ライノルト・オプヒュルス=カシマ 先生】

えぇっとー。こっちはなにいってんだかわかんないやw ていうかぜんぜん「厳密」なはなしに見えないんだが?
ていうか 開いた とか 閉じた とか言うなヽ(`Д´)ノ!
ていうか、どこに「会話分析」が出てくるのかと思ったら、

(2)遅くともハーバーマスルーマンの広範に物議をかもした論争以後(それは文芸学に「ディスクール分析」が突如として出現する以前のことだが)、西ドイツの哲学と社会科学においてユルゲン・ハーバーマスの「ディスクール」概念はすでに重要な役割を演じている。この概念もまた、少なくとも部分的には精神分析の伝統に、それもアメリカ合衆国の「会話分析discourse analysis」に端を発する。それに次要素として、公共的な討論における調停という啓蒙的な合理性の概念をみることができる。これにしたがいハーバーマスにおいては、対話的・相互行為的な要素が二重に強調される。強制されない合意を目指す合理的な討論の類が当初は考えられていたのだ。〔…〕それがのちになると、ハーバーマスは彼のディスクール概念を、とりわけフーコーの概念に〔…〕近づけた。以降は彼もまたフーコーのように、「特殊な」もしくは「特殊化したディスクール」について論じている。だがそのさい彼は(フーコーとは反対に)、そのときどきのディスクールに対して最終的に絶対である間主体性をあくまでも主張する。〔…〕

単なる誤訳じゃねぇか。