休日の社会学あれこれ

日射でひろったあれこれをぱらぱらと。最新の=最後のGSR。『理論と方法』『社会学評論』のバックナンバーあれこれとか。
『理論と方法』vol.15 No.1(2000) はかつて購入した筈なのにどうしてもみつからず、再購入。



  • 遠藤知巳「言説分析とその困難──全体性/全域性の現在的位相をめぐって」『理論と方法』(2000)

フーコー自身にも、ときに全域的な視線に身を委ねてしまう瞬問がある。[‥]
 もっとも分かりやすいものから言えば、後期における「権力」への傾斜と、『知への意志』以降の「生-権力」概念が、そうした危険さをよく示している。「権力とは至るところで産出される関係の総体である」──記述の出来事としてしか成立しえないはずのあの多角形の全域が、ここでは「権力」という語によって名指されてしまっている(だからこそ、とても「魅力的」な規定に見えるのだろうが)。個々の関係自体は複数的だが、関係全体を見渡せるかのような視点が、すべり込まされていくのである。ことに「生-権力」が、19世紀近代が有していた全域性への独特の素朴な信頼をたぶん、彼にしてはかなり凡庸に追認してしまう概念であるだけに、さらにまずい。「全体的かつ個別的に」というのはあまりにも19世紀近代の理念そのままであって、近代的言説としての社会学からのずれが発生しないのだ。ここまでくれば、たとえば「主体」と「権力」の関係自体をメタレヴェルで語ったり、「主体」や「権力」、「身体」等々の用語系の各々が構成するであろう全域のあいだの関係を「批判的に」検討したり、さらにそこから「フーコー思想」の(全体的な!)整合的再構成を行うメタ・メタ・…視点の繁殖まではあと一歩である。このようにして、フーコーは急速に平板化されていくのだが、その萌芽が彼のなかになかったとは言い切れないのである。/ あるいはまた、有名な「先験的=経験的二重体」という概念も、[‥][p.57]

この指摘自体がクリシェであることはさておき。

「なかったとは言い切れない」というか。ふつーにあったでしょ。

資料を読まねば言説分析にならないが、全体性を信じて資料経験を積み上げていくような想像力のありかたは、やはり言説分析の衝撃力を弱体化する。たしかに、外延を何らかのかたちで想定することなしには、社会学にせよ言説分析にせよ、そもそも分析は不可能だ。だが、読まれるべき資料群の秩序に対する予想は、分析の過程で連続的に裏切られ続け、この落胆の経験こそが、分析の有意味性を担保する。形象の輪郭自体が変形するのだ。裏切られることを求めて読みの努力を重ねなければならず、絞りとるようにして得られた違和の意味を思考しなければならない。逆説的だが、違和を予感できる能力というか、予想を裏切ってくれそうな形象を嗅ぎつけるセンスのようなものが、言説分析には必要なのである。[p.58:強調は引用者による]

こういうの↑って、或る年齢より上*のひとに けっこう共通してみられる テンプレート的 萌えスタイル ではないだろうか、と世代論に落としそうになっている私♪
ちょっと離れたところに キットラーについて こんなこと↓書いてあるんだけどさ、不毛なことにかけてはオマエモナーというか50歩100歩じゃない?

けれども、[キットラーによる]メディアの超-平面の措定は問題の解決にはならない。彼が扱っているのも「メディア」自体ではなく、結局のところ、「メディア」をめぐる(主に文学者たちの)言説だし、何よりも、『グラモフォン』が書物の形式を取っているという事実が、彼の「宣言」を雄弁に裏切っている。キットラー自身が、このことにたぶん気づいている。あの偽悪的な「メディア」への居直りや図式性の顕示、それを駆動させる苛立たしげな饒舌が、そのなによりの証拠である。現代において、この気づきのずばぬけた精度は感動的でさえあるが、しかしおそらく、どこか不毛さへと至るものだろう。[p.58-9]


* とおもってググってみたら 1965年うまれとのこと。書かれていることから見て10(+-3)歳は年上かと予想したのだが見事にはずれた。