DQA:その2

  • ルーマンの謂ういみでの)DQA(EMで謂う)リフレクシヴィティとの関係については、この↓著作におけるリフレクシヴィティの解説が 直接に 参考になります:

相互行為分析という視点 認識と文化 (13)

相互行為分析という視点 認識と文化 (13)

そこで著者は、「作動的閉鎖」と ほとんど直接に重ねあわせる事ができるような仕方で 「リフレクシヴィティ」について論じています。


ちなみにgoogle:フーコー+ルーマンググると見事にハバーマス先生絡みのネタしか引っかかりませんな。

  • ハーバーマスは主体哲学の批判において近代哲学全体を総括し、認識主体を核とする意識哲学(反省哲学)から労働主体を核とする実践哲学への展開を踏まえて、歴史哲学的に構成されたマクロな主体の概念を批判し、その帰結としてフーコーの権力概念やルーマンのシステム概念を批判した(‥)
    • フーコーの権力論】
      • 理性批判を「人間諸科学」への批判をとおして極限にまで進める
      • 近代的理性(思惟する主体)の「知への意志」は「権力への意志」そのものにほかならないとする
      • 人間中心主義の思惟(主体中心的理性)を権力のテクノロジーに還元することで理性批判を展開
      • フーコーの理性批判はルーマンの機能主義的理性の影にとらえられ、おのずから批判性を喪失していく
    • ルーマンのシステム論】
      • ルーマンは認識主体と世界(認識対象の総体)との関係を「システムと環境」の関係に置き換え、認識する主体の自己関係を、環境(意味地平)の複雑性を反省して「意味」を加工する(複雑性を縮減する)システムの作用に移し替える
      • しかし、システムの自己関係からは総合の働きをする自己意識の同一性アイデンティティが排除されており、そこでは複数のシステムがそれぞれに機能分化を続け、ただ複雑性を増大させていくだけであった
  • ハーバーマスは「近代の哲学的ディスクルスフーコーにおける全面的な理性批判の袋小路と、新保守主義における機能的理性の全面的な肯定)」のたどった道を原点にまでさかのぼりそこにおいて理性のパラダイム自体を転換し、主体哲学を脱出する別の道をたどろうとした
  • つまり、フーコールーマンのパラドキシカルな理論的照合関係は主体中心的理性のアポリアにとらわれた近代の社会的実践のパラドックスを反映するものであり、そうした実践の原理となる「労働」の限界にかかわる問題とした

http://up.t.u-tokyo.ac.jp/summerschool/2Habermas.html

いやぁ...。あっはっはっは。反論不可能ですよぅ。

「権力論」と「システム論」て。水準の違うもんを一緒に並べて論じてる時点で もうすでに踏み外しちゃってるわけで。


【追記】
こちらに引用文をアップしました:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060131/1138642175