葵さん、ご笑覧&コメントありがとうございます。
しかしここで謂う「コンテクスト(=場面)」とは
〈それによって「言表」(の意味)が確定される〉とされる、ふつうの意味のそれではなくて
- 或る言表が、そこにおいて生じる 場field/domain である
というだけでなく、同時に、
- その言表自体が、その 場field/domain をつくりあげる一つの 指し手move となっている
という事情*を指すために使われている。
EM者は、これを「相互反映性reflexivity」といいます♪(特殊)社会システム論では*4、これを「オト(・∀・)ポイエンチす!」といいます♪つまり、コンテクスト(=場面)とは、ある言表が位置を占め何かを意味する場であると同時に、その言表自体がその場を作り出す一つの契機であるということを意味しており、──つまりコンテクスト(=場面)は自己言及的閉鎖性と循環性によって理解できる──オートポイエーシスという概念で置き換えられる、ということでしょうか。
- tamadareaoi:20050824
引用していただいた箇所で「それぞれの概念が相互にどう対応しているか」といえば:
エスノメソドロジー ルーマン フーコー(@『知の考古学』) 指し手、実践 要素(=作動) エノンセ 場面 ネットワーク 言説 相互反映性 社会システムの
オートポイエーシス(言説の)編成
‥‥でした。
これらは
「似ている」のでも「機能的に等価」なのでもなくて、私の考えでは、
その形式的同型性を確認することによって、そこから生じているアプローチの多様性*に 驚 く 事 が で き る ような仕方で「同型的」であると思います。
* なお、「機能的に等価」という語は──もしそれをつかうのなら──この「多様性」のほうに対して、がよいようにおもいます。
これは、〈違うものたち〉のあいだの関係について使ってこそ いみをもつ言葉なので。
ちなみに、念のため微妙に修正しておくと、「〈場面〉が〈DQA〉で置き換えられる」のではありません。
比較すると楽しいのは──私が思うには──、〈場面/指し手〉の構成的関係[相互反映性]-と-〈ネットワーク/要素〉の構成的関係[=DQA]、です。
比較すると楽しいのは──私が思うには──、〈場面/指し手〉の構成的関係[相互反映性]-と-〈ネットワーク/要素〉の構成的関係[=DQA]、です。
ところでここで私は、フーコーのいう「場domain」とEMでいう「場面setting」を混用/混同してしまってますね。(いま読むと。)
てことは、ここには、──フーコーのテクストに即して──もうちょっと整理しないといけないことがありそうです。それはまた、テクストが手元にあるときに、考えてみましょう。
さしあたり、テクストを見なくてもわかることを書いておけば。 setting は domain の 上位概念になっているのだと思います。