涜書:フーコー『知の考古学』:〈言説編成の四要素〉と〈言表の四機能〉:まえふり

Archaeology of Knowledge (Routledge Classics)知の考古学 (河出・現代の名著)

『知の考古学の』の構成と方針を示すII章とIII章の関係。ここを突破しないとやはり先に進めない。

第III章3節を再掲:http://d.hatena.ne.jp/contractio/19691231#p1

言説は、対象の編成・主体の地位の編成・概念の編成・戦術的選択の編成 という四つの方向で分析される。
これらは、言表機能がはたらく四つの領域に対応する。[p.177]
The four directions

in which it [=discours] is analysed (formation of objects, formation of the subjective positions, formation of concepts, formation of strategic choices),
correspond to the four domains in which the enunciative function operates.[p.130]

第II章2-6節「言説の編成」[→] 第III章第2節「言表の機能」[→]
言説編成の4つの要素 言表の機能の4つのドメイン
  • [1] 言表がかかわる対象
  • [2] 主体の地位[言表の様態〜権威・権限・役割・社会的場面]
  • [3] 言表を編成する概念の体系
  • [4] (理論的な)主題と戦術
  • a) a referential[〜言表の指示対象]
  • b) a subject[〜言表の主体]
  • c) a associated (enunciative) field[〜言表-が構成する/によって構成される-空間]
  • d) a (repeatable) materiality [〜言表の反復可能性]

問題は、これらがどのように「対応する」のか。──これである*1。 この「対応付け」をうまく示す事ができてはじめて、それ以降のアーカイブ、実定性、savoir 概念の導出が説得力をもつ(or 説得力をもつ可能性を持ちうる)。

うまくいっていなければ、後続する議論も説得力をもちえない。
しかし残念ながら。

私は──このエントリを書く直前に再度(というか2度)通読したが──、『知の考古学』という著作の中に、この 「どのように対応するか」についての記述を、次の箇所しか見つけられなかった(これは上記引用 第III章3節[p.177] の直前に位置する)
そして──なにが残念なのかといえば──、私はこの箇所が理解できない:

まずまえおき:

B
[「言表を記述する、という最初に提起された仕事によって、それ以後なにを意味すべきか」という第一のグループの問題の次に、]今や第二のグループの問題の方へ赴かねばならない。すなわち、

  • このようにして規定された言表の記述は、いかにして、先にその原理を粗描した言説形成=編制の分析に順応しうるか?

また反対に、

  • いかなる限度において、言説形成=編制の分析は、今しがた述べた意味で、たしかに言表の記述であると言いうるのか?

この問いかけに答えることは重要である。なぜなら、私が永年にわたって密接にかかわり、明白な見通しを立てずに展開してきたのちに全貌をとらえるべく試みている企て[→考古学プロジェクト]──それを再調整すること、[‥]──が、その円環を閉じるのは、まさにこの点においてであるからである。[‥] 私は、

基礎となるような言表の一定義から、言説形成=編制の分析を結論づけはしない。また、言表の性質を、言説形成=編制が示すところのものから──人々がしかじかの記述からそれらを抽象しえたように──結論づけはしない。だが、
いかにして、断層なく、矛盾なく、内的恣意なしに、諸言表が問題とされている一領域、その集合化の原理、それらが構成しうる大きた歴史的諸統一、それらに記述を可能にする諸方法、などが組織されうるか、を示すことを試みる。[‥] そして私は、もしも「円環を閉じ」させることができたならば、そして言説形成=編制の分析がその特殊性において、言表の記述にまさしく集中することを示しえたならば、──要するに、言説形成=編制の見定めのうちで働くもの[→編成の4要素]が、まさに言表に固有なさまざまな次元[→言表の機能の4ドメインであることを示しえたならば──
一つの厳格な理論的モデルをうち立てたのではなく、
記述の首尾一貫した一領域a coherent domain of descriptionを解放したこと
少なくとも開かれ、可能性をそなえたモデルをうち立てずに、
if not established the model,
そうした領域を有したものと考えるであろう。権利上一つの理論の〈基礎を築く〉よりは──そして、たまたまそれをなしうるに先立って(...)──さしあたり、一つの可能性を〈確立する〉ことの方が問題なのである
And I will consider,
not that I have constructed a rigorous theoretical model, but
that I have freed a coherent domain of description,
that I have,
if not established the model,
at least opened up and arranged the possibility of one,
if I have been able to 'loop the loop', and show that the analysis of discursive formations really is centred on a description of the statement in its specificity.
In short, if I have been able to show that they really are the proper dimensions of the statement that are at work in the mapping of discursive formations.
Rather than founding a theory -- and perhaps before being able to do so (...) -- my present concern is to establish a possibility. [p.173-5]

ここまではよい。

この前振りは、〈『知の考古学』という書物はなぜ書かれなければならなかったのか〉、〈ここで何が目指されているのか*〉、あるいは──言いかえると──〈事柄に押し流されてフーコーはどこに漂着してしまったのか〉についてのフーコー自身の証言となっており、しかもそれが、ほかならぬまさにこの場所でなされている、という2つの点で、重要だと思う。
* それが「如何に記述するか=如何にして記述の単位領域を確定(〜解放)するか」であることは、明らかなように私には思われるのだがあなたどう思うか。
しかしここもまた見事に糞訳だなぁ...
ところで、ここの「before being able to do so」の含意もまたすごく重要だと思うのだが、いったい読者の何人が(以下略)
少なくともおそらく、エスノな人には「before being able to do so!」という叫びはひとごとではなく、(少なくとも)この点では、フーコーを擁護する側にまわらないといかんのではないか、と予想。いや予想ていうか。どうなってるのかそのへん。

ここからが問題の箇所(引用が長めに な っ て お り ま す):