フーコーをすごい(ゆっくりとした)勢いで再読するスレ。
英訳が届いたわけだが。
Archaeology of Knowledge (Routledge Classics)
- 作者: Michel Foucault
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2002/05/09
- メディア: ペーパーバック
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The English 'knowledge' translates the French 'connaissance' and 'savoir'. Connaissance refers here to a particular corpus of knowledge, a particular discipline - biology or economics, for example. Sarvoir, which is usually defined as knowledge in general, the totality of connaissances, is used by Foucault in an underlying, rather than an overall, way. He has himself offered the following comment on his usage of the terms:
- By connaissance I mean the relation of the subject to the object and the formal rules that govern it.
- Savoir refers to the conditions that are necessary in a particular period for this or that type of object to be given to connaissance and for this or that enunciation to be formulated.
savoir:或る時代に、「あれこれの対象が 科学的知識[のコーパス・分野]に与えられるのに必要な諸条件」および「あれこれのエノンシアシオンが編成されるのに必要な諸条件」のこと。Throughout this translation I have used the English word, followed, where the meaning required it, by the appropriate French word in parentheses (Tr.)
まぁやはりよくわからないわけですが。
こいつについては、なにがわかったら「わかった」といえるのかもわからんな。いまのところ。
とりあえず、それ自体は科学であるわけではないが・科学が成立するのに必要な条件(としての知識集成=savoir)だ、ということで。
てことで第IV章再訪。
- 作者: ミシェル・フーコー,中村雄二郎,Michel Foucault
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1995/08
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IV 考古学的記述
- 1 考古学と諸観念の歴史
- 2 オリジナルなものと規則的なもの
- 3 さまざまな矛盾
- 4 比較に基づく事実
- 5 変化と変換
- 6 科学と知
[p.275]
実定性を分析すること、それは、いかなる諸規則にしたがって一つの言説=実践が
- 対象の群れ、
- 言表行為の総体、
- 諸概念の働き、
- 理論的選択
の、さまざまな系を形成=編制しうるか、を示すことである。
第II章で論じられた4つの「手引き」に相当するものだと思われ。
ところで、こういうふうに、<言表/言説>と、<そのほかいろいろな要素/言説>との関係双方について、同じ「formation」という言葉を使っているのが非常に奇妙に思われるのだがどうなのか。
すごくヘンだと思うのだが。
[p.276]
[実定性の分析において]問題になるのは、[‥]、一つの言説=実践によって──ときとして一つの科学的言説が、その形式と厳密さによってのみでなく、
- それがかかわる対象、
- それが実現する言表行為の類型、
- それが扱う概念、
- それが用いる戦術
によって、特殊化されたかたちで構成されるために──形成=編制されるべきであった諸要素なのである。
第II章で論じられた4つの「手引き」に相当するものだと思われ。
ところで、こういうふうに、<言表/言説>と、<そのほかいろいろな要素/言説>との関係双方について、同じ「formation」という言葉を使っているのが非常に奇妙に思われるのだがどうなのか。
すごくヘンだと思うのだが。
かくして、
われわれは、それに固有な理念性の意図が基礎づけられるためには、科学を、生きられるべきであったものや、生きられるべきものに帰着させることをしない。しかし、われわれは──もしものときに、科学性の実験的あるいは形式的諸基準に応える一個の言説を存在せしめるために──科学を、言われるべきであったものや、言われるべきであるものに帰着させる。
「もしものときに」てw。なんやねんそれ。
とおもたら英訳はかくのごとし。でした。
This precondition may not, of course, be analysed as a donnee, a lived experience, still implicated in the imagination or in perception, which manking in the course of its history took up again in the form of rationality, or which each individual must undergo on his own account if he wishes to rediscover the ideal meanings that are contained or concealed within it It is not a pre-knowledge or an archaic stage in the movement that leads from immediate knowledge to apodicticity;it is a group of elements that would have to be formed by a discursive practice if a scientiflc discourse was to be constituted, specified not only by its form and rigour, but also by the objects with which it deals, the types of enunciation that it uses, the concepts that it manipulates, and the strategies that it employs.Thus science is not linked with that which must have been lived, or must be lived, if the intention of ideality proper to it is to be established;but with that which must have been said -- or must be said -- if a discourse is to exist that complies, if necessary, with the experimental or formal criteria of scientificity.