手癖書きなぞなぞおやぢの陳述に 俺が憔悴しつつもつきあうスレ。
『考古学』に登場していた「希少性」概念が『ディスクールの秩序』にも登場しているのをみて、「そういえば」と思い出した事をメモしておくわけです。なんで「メモ」なのかというと、この思いつきがそれなりにもっともらしいものかどうかを確認するためには、この読みの方針に従って、もいちど『考古学』をチェックしてみなくちゃ逝けないわけですが、それが めんどくさいから。というか鬱。
私の思いつき的仮説は次の通り:
『考古学』に登場する「希少性」という概念は、──少なくとも私にとって──非常に意味の解しにくい・理解に苦しむ使われ方をしているものだが、こうなってしまっている理由は、フーコーが、
- そもそも概念的に区別されるべき二つの事柄を、一つの言葉で表してしまっているから
ではないか。
というもの。 そして、ここでいう二つの事柄とは、一つは、
- 【A】ある事柄の量や機会が限定されている[という意味でレア]
というもので、これはまぁ辞書通りの意味ですな。そしてもう一つは、
- 【B】ある事柄が、時間的・事象的・社会的にローカルなものである[という意味でレア]
ということ。
それぞれ敷衍すると、【A】は、たとえば、「合格者が一定数に決まっている条件の下での試験(にもとづいて付与される資格)」や、「流通量が一定量に決まっている条件の下での貨幣」などについて謂われる意味での「レアさ」のことで、まぁこちらは分かりやすい。
『ディスクールの秩序』におけるフーコー自身の表現を引けば、たとえば「[特定の]言説をもつ個々人に若干の規則を課し、かくして、万人をそれらに近づかせないようにすること[‥]。[これは、]語る主体の希少化、ということになります。」[p.38] とか。
問題は【B】。こちらは──ひらたくいえば──、
- 「ある時代のある場所で〈当然の・ノーマルな〉ものとして行われている事が、そこから(時間的・事象的・社会的に)距離をとってみると、〈ヘンな・アブノーマルな〉ものにみえる」
ということ。ある事柄がローカリティをもっている、という意味での「レアさ」。
或るノーマルなもの-の-アブノーマルさ。(もっと「ニュートラル」にいえば、「ありそうなもの-の-ありそうになさ」──というルーマン風の表現になる。)
フーコーはこれを、当の事柄が「ある言説編成に属している(のであって他の言説編成に属しているのではない)」ことをもって記述するわけですな。
フーコーはこれを、当の事柄が「ある言説編成に属している(のであって他の言説編成に属しているのではない)」ことをもって記述するわけですな。
ちなみに、(特殊)社会システム論では*1、
- 【A】を「希少性」*といい、
- 【B】を「ありそうになさUnwahrscheinlichkeit」**といいます。
というか、そうした事情があることによってこそ、フーコーの──仮に上記の推察が正しかったとして──「混同・混乱」に気づく事ができたわけだが。
どちらも確かに「レア」なんだけど、でもそれらははっきりと「別のこと」なのである。
実際──ここでフーコーに即して語る準備がないので、以下の定式はルーマンに依拠した場合のそれになるが──
- 「〈希少性〉の形式をもつすべてのものは、確かに unwahrscheinlich である」けれども、
- 「unwahrscheinlich なもののすべてが、〈希少性〉という形式をとるわけではない」
にも関わらず、異なる事柄を一つの言葉で指し示し、しかもそれが研究プログラムの中心に躍り出て来てしまうということになると──『ディスクールの秩序』において、そういうことになっているわけだけど──、この混乱・混同は、以後の議論に大きく影をさす事になるのではないか、と予想される。‥‥のだが確認するのメンドクセ。
この点を論じた論文とかないですか?>識者さん
*【A】は、ルーマンにおいては、一方では 偉大なるアメリカ社会学の父・20世紀最大の小言親爺・我らが親愛なるタルコット・パーソンズ師から引き継いだ、ルーマン初期からの
**【B】の登場例も──やはり二つ──あげておくと、たとえば『社会的システムたち』[こちらは索引でアクセスできるが、残念ながら東北大グループは、この言葉に「不確実性」という訳語を当ててしまっている(!)]。他の例として、「社会学的概念としてのオー■ポイエーシス」[1987→1993](馬場靖雄訳、『現代思想』vol.127-10)。
そして──ルーマンの場合は──議論全体に対する概念の重みについていえば、【A】よりも【B】のほうが、圧倒的に重い。【A】は数あるトピックの一つに過ぎないけれど、【B】は記述の方針そのものにトータルに関わっているのだから。
「総量一定則」といった──「ゼロサム状態」を指す──言葉で登場する事もある
トピックであり、他方では そこに加えた「ひねり」をみることで ルーマンが「セルフリファレンス」という言葉でどんなことを考えているのか、を確認することができる(というしょうもない意味でも)面白い論点なのだが、まぁそれはまた別の話。用例としては──初期と後期からひとつづつ──、『社会学的啓蒙1』[邦訳:p. ]および『社会の経済』[索引でアクセス可] をあげておく。**【B】の登場例も──やはり二つ──あげておくと、たとえば『社会的システムたち』[こちらは索引でアクセスできるが、残念ながら東北大グループは、この言葉に「不確実性」という訳語を当ててしまっている(!)]。他の例として、「社会学的概念としてのオー■ポイエーシス」[1987→1993](馬場靖雄訳、『現代思想』vol.127-10)。
そして──ルーマンの場合は──議論全体に対する概念の重みについていえば、【A】よりも【B】のほうが、圧倒的に重い。【A】は数あるトピックの一つに過ぎないけれど、【B】は記述の方針そのものにトータルに関わっているのだから。
*1:© 宮台, c鈴木 et al.