涜書:上野本

昼食。俺がいちからコチークを勉強するスレ。俺コチ。
赤川論考「言説分析と構築主義」再読。
isbn:4326652454
あかがわ氏なかがわ氏の議論をまとめて:

では、どのような手続きに従えば、社会問題の言説分析を行ったことになるのか。中河伸俊によれば、構築主義的な社会問題研究の対象の範囲は、そのタイムスパンに応じて、

  • [1] 一続きの〈ここ-いま〉の切片の中での問題をめぐる語りを会話分析や言説分析の手法にならって解析する、
  • [2] 問題に関わる特定の制度的場面をエスノグラフィー(民族誌)の方法で調査する、
  • [3] 特定の問題とその解決をめぐる集合表象の場面をめぐる問題過程を追跡する、
  • [4] 社会問題をめぐる集合表象の歴史を言説史のアプローチに依拠して調べる、

という四つの経験的水準に分類される。[1] から [4] に移行するに従い、分析のタイムスパンが大きくなる。調査法のイメージとしては、

  • [1] は会話やテレビ番組などミクロな記録素材の分析、
  • [2] は参与観察やフィールドワーク、
  • [3] は公的な機関(議会やマスメディア)における言説分布の調査、
  • [4] は言説の歴史的分析(言説史)

といった具合である5

(5) データ収集の困難と、言説が埋め込まれている文脈の再現の難しさのゆえに、構築主義の中でも、もっともチャレンジングな作業となるのは、[4] の歴史的言説の分析である。特に五〇年、一〇〇年単位での言説変容を視野に収めようとすると、どの言説をピックアップするかという問題に始まり、当時、その言説が埋め込まれていた言説空間の全体や社会的コンテクストを再構成することに困難が伴う。このため歴史的な言説分析は、構築主義の中では「ナンセンス」、「速記にすぎない」という批判を浴びることさえある。だが、ここで挙げた困難は、データの質に伴う技術的な困難であり、難易度の差はあれど、[1] 〜 [4] のいずれの研究戦略においても生じうる。 たとえば、一つの社会問題に関する事例研究であっても、その言説の連鎖を追尾する期間には、通常数年、長ければ十年単位に及ぶ。ひとり歴史的な言説分析だけが、先の困難に逢着するわけではない。
 逆に、歴史的な言説分析の手法によってしかみえてこない側面もある。たとえば、社会間題をめぐる言説連鎖の長期的な過程を俯瞰してみると、ある時期には特定のレトリックが頻繁に用いられたり、ある時期から特定のレトリックがぱたりと使われなくなったりすることがある。言説のレトリックにも、流行り廃りがある。その流行り廃りを読み解くことによって、「なぜこの言説が語られ、他の言説が語られないのか」というフーコー流の問題意識に、一定の回答を与えることが可能になるかもしれない。

「ひとり歴史的な言説分析だけが、先の[「データ収集」や「言説が埋め込まれている文脈の再現」という]困難に逢着するわけではない」というのは ごもっとも。


しかし「なぜこの言説が語られ、他の言説が語られないのか」のほうは難しい。それは何をみればわかるのか。
「登場頻度」──時間軸上の分布*──だろうか。

* ex.「たくさん語られていたことが、少ししか語られなくなった」

そう考えるなら、言説分析は──トッシキが謂うように(@年報)──計量的な分析の下位分野になる。(いいかえると、最良の場合は「計量分析そのもの」になり、そうでない場合は「曖昧な計量分析」あるいは「計量に似た【何か】」となる。) それはそれでよい。


 計量分析の下位分野以外のものであろうとするなら、言説分析は、そもそも「或ることが(語られてい)ない」と言えるのは どのようにしてか という問いに取り組まねばならない*。

* 〈エノンセ/ディスクール〉という概念ペアは、その↑問いにアプローチするための道具立てだった(or でもあった)のではないのか。

 そしてもしそう言ってよいのだとしたら、こうも言ってよい筈だ: 「或ることが無い」と言えるのは どのようにしてか という課題に取り組まねばならないのは、ひとり歴史的な言説分析だけではない([1] 〜 [4] のいずれのスパンの研究においても、この問いに出会うことはできる)。 ──さらにいえば、「或る種の」社会学的プログラムは どれも、フーコーのこの問を無視できない。

少なくともルーマニ屋は無視できない。
たとえば。ルーマンが【構造】という名で呼ぶのは、「ある事柄は接続するが別の事柄は接続しない」という可能性の限定のことである(cf. isbn:4769907427isbn:4769908083)。 だから「構造の記述」を行おうとする際には、ルーマニ屋も、まさにまったく同様の課題に取り組まねばならない(はずである)。 「ある事柄は接続するが別の事柄は接続しない」ということは、それ自体、経験的なマテリアルを以て示されねばならないことだから。
それは、得られたマテリアルを配置すれば──その「分布」をみれば──分かることなのではないし、そうでなければそもそも「オートポイエーシス」などという概念──〈構成素/ネットワーク〉という概念ペア──の導入も必要がない。
しかし「幸いにして」、ルーマニ屋界隈でこの困難に逢着している文献にはまずお目にかからない。その理由は──ルーマンフーコーよりも上手くやったから・困難を「理論的に」解決してくれているから、では(ぜんぜん)なくて、──ほとんどのルーマニ屋は これがクリティカルに問題になるような水準では仕事をしていないから、だろうと私は思う。



あかがわ氏つづけて曰く:

 この四つの分析範囲のうち、どれを重視すべきかは、それぞれの研究目的に応じて使い分ければよい。たとえば、何ごとかが「社会問題」としてクレイムされる瞬間の、ミクロな会話のやりとりを観察するもよし。何ごとかを「社会問題」と認識する人たちが集会でアピールしたり、マスメディア向けに声明を発した言説を、パンフレットや記事の形で収集することもできるだろう。一定期間内に、マスメディアにおいて、ある社会問題がどうとり扱われたかを、新聞・雑誌記事やテレビ・ラジオ番組の内容分析の手法に基づいて収集・整理する必要も生じるかもしれない。国会や県議会や地方自治体など公的な立法行政機関において行われた議論を、議事録のような形で再構成する場合もある。学術雑誌や総合雑誌、新聞記事において、ある事柄に対する取り上げられ方がどのように変化したかを、長期的なスパンで確認することもできる。