トッシキ祭り番外編(本編?)。「中の人と語ろう」のコーナーです。
31日から急にアクセス数が増えていて、準F5攻撃してるやつまでいる始末。
というわけで、そろそろ書かないと人間性を疑われそうなので、なんとか頑張って、5月24日のコメント欄で佐藤俊樹さんにいただいた書き込みへのお返事を書いてみるわけです。
以下オン書きでお届け!
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いただいた「解説コメント」と掲載誌、そして『言説分析の可能性isbn:4887136544』三者間の 行きつ戻りつを繰り返してみて、いちおう解説の趣旨は理解できたと思います。どうもありがとうございました。
ここでは──記事を横目に見ながら──、おもに、『可能性』所収論考を中心に、コメントをいただいて考えたことを 質問の形で書いてみることで、応答とさせていただきたいと思います。
01
まず。
指摘された、
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- 意図を個人に回収するか、社会に回収するかのうち、後者を選べば「何かいったことになる」わけじゃない。
- 「意味は個人に回収できない」ってのを単に言ってみてもダメ。
- 言説分析には知識社会学とは異なる固有の可能性があるはずだ。
などなどの論点については 同意いたします。
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- 〈個人と社会〉を──それに対する「媒介項」を用意することによって──統合的に扱ってみてもしょうもない
そのうえで。
佐藤さんが「そこから先は一つの正解があるわけではない」と書かれた地点で、なるほど確かに道が分かれるようだ、とも思いました。簡単にいえば、佐藤さんはそこで「社会学の遂行的性格」に注意を喚起しているようにみえるのですが、その場所は、私自身にとっては──そこに注意を向ける代わりに、むしろ──エスノメソドロジーに助けを求めようと思い始める地点なのです。
佐藤さんはこう言います(id:contractio:20060524#c1148543370):
- 「誰か」に回収されていた意味をそこから再び引き剥がす運動、それが言説分析
- 実定的な文章上に再現するには、既存の具体的な言説群に関説しながら、ゆっくりと引き剥がすしか[ない]
- 言説分析的であるかどうかは、それが接続をかけている言説群で通常とられている「誰か」からどの程度引き剥がせているかどうかだ
これ↑──と『可能性』論考──を拝読してわたしが感じた疑問とは、次のようなものです:
- 【Q1】これは、「社会学者が資料をどう扱い、読者にどう提示するか」という〈プレゼン水準〉の話ではないのだろうか。
‥‥と書けば、おそらく佐藤さんは がっかりするだろうと想像します(ので申しわけないことですが)。 あの論考が、「そうではない」ことを示すために書かれたものであろうことまでは、わたしにも理解できるからです。しかし、いちおうはそれを理解したうえで、にも関わらず尋ねたくなるのは、幾つかの理由があるのです。以下それについて、少し敷衍してみます。
02
まずはトリヴィアルなことの確認からはじめてみます。社会学は──「その基礎概念は意味である」というテーゼを出発点としてよければ──
- 意味に関わる・意味の関わる現象を記述する
- その記述に関する組織化された反省をおこなう
つまり、
-
- 【水準1】〈記述対象〉を「一次」とし - 〈対象の記述〉を「二次」とする水準
- 【水準2】〈対象の記述〉を「一次」とし - 〈記述の反省〉を「二次」とする水準
という二つの水準をもちます。そこで、わたしの疑問はこう書き換えることができます。
- 【Q2】佐藤さんが言説分析について述べていることは、【水準2】に関わることのように見える。
では【水準1】については、事情はどうなっているのか。
03
もう一歩進みます。
上で、「「そこから先は一つの正解があるわけではない」と書かれた地点で、なるほど確かに道が分かれるようだ」
と書いてしまったのですが、これは書き急ぎすぎでした。わたしの疑問は、そのあたりのどこでどのように分かれるのか、ということでもあるので、もう少し丁寧に進む必要があります。
「ルーマンの仕事を真剣に受け取ろうとしている」点では道は分かれていないことを──この時点で かなりの少数派になってしまっているわけですが──前提にしたうえで、しかし、そのタスクを次のように定式化してみると、「ひょっとしたら この↓あたりで、道がわかれてくるのかなぁ」という気もします(どうでしょうか──これが知りたいことです)。つまり、
- 意味に関わる・意味の関わる現象の記述を、特に〈社会システムの作動〉に差し戻す形でおこなうものが「社会システム論」と呼ばれ
- ここでの対象の自己構成を「社会システムのオートポイエーシス」と呼ぶ
のだとすると、この
- 〈自己構成する対象の記述〉というタスク*を糞真面目に受け取るかどうか
──という地点です。
「自らを示すものを、それがそれ自身のほうから自らを示すままに、それ自身のほうから見えるようにさせること」。 これを「オートポイエーシス」という名で呼ぶのは わたし自身は気が進みませんが──オートポイエーシスであろうが 言説の編成formationであろうが 相互反映性reflexivity であろうが──、まぁ名前はどうでもよいことです。id:contractio:20041112#1100196820
ルーマンもフーコーも、一方では、記述対象の自己構成を主題として明確に提起しながら、他方では、それを徹底して追求することにはためらいがみられるようにおもいます。
〈対象の自己構成の記述〉というのはリスクのおおきい奇特なタスクであり、なにより (狭いいみでの──たとえば、佐藤論考で取り上げられているようないみでの──)「実証主義的」研究よりも遥かにおおきなコストがかかります。なので、そんなものを追求している人は圧倒的に少数派ですし、それももっともなことです。
それはそれとして、しかし、ルーマニ屋やフーコーぢゃん-の内部で-このタスクを〈引き受けるか/否か〉という対立が起こるのは、ほんとうは おかしなことです。
そしてまさに、ルーマニ屋やフーコーぢゃんの間では そうしたとても奇妙なことが、しかし 実際に生じているように見えます。私が この場所で──デリダでもキットラーでもスピヴァクでもバトラーでもベンヤミンでもバークでもなく──エスノメソドロジー研究の名を引き合いに出すのは、それによって、ルーマニ屋やフーコー読みにおける いまのところ不明確なままになっている この対立を 照射できると考えるからです。
エスノメソドロジー研究は、「このタスクを追求する」という点で(少なくともフーコーやルーマンと比べて)ブレがありません。社会学はすでに──「他の偉い人」のところにわざわざ知恵を求めに行かずとも*──、このタスクを経験的研究のなかで糞真面目に追求している それなりの幅と厚みと歴史を備えた研究業績を持っているわけです**。したがって、EMとの対照のもとにおくことで、読者は、ルーマン&フーコーから距離をとった仕方で=それぞれのブレにベタには左右されずに、しかも「経験的な学としての社会学」タスクから逸れずに 彼らとつきあうことができる、‥‥そのように私は考えます。
** そして、「それなりの幅と厚みと歴史を備えた」流儀は、ほかには見つかりません。
04
たとえば、佐藤さんはこう書きます:
言説分析は確定単位を解除するが、それでも何らかの単位を事後的にせよ成立させる。一方、テキストの知識社会学でも、真に正しい確定単位を求めるという形で、既存の確定単位を解除できる。[佐藤論文:p.12]
ここでは実証主義と言説分析が対照されているわけですが、しかしそうは言っても──この↑定式においては──どちらも、
- 研究対象の側で-手続を追って進められている-意味確定(/確定解除)の働き
とは関係のない──もしくは関係の定かではない──、
- もっぱら社会学者の側で行われる意味確定手続
の話をしている、という点ではかわりありません。もちろん、そうした「社会学者の側での意味確定の解除」が、仕事にとりかかるための前提的なステップとして必要だし重要だ、という話であれば、わたしにもわかります(cf. エスノメソドロジー的無関心)。しかし、それならば「そのうえでどこへ?」という話が続いてもよいはずですが、そのような気配はありません。(敢えて探せば p.18 あたりがそうなのかもしれません。そうなのでしょうか。)
つまり、佐藤さんが 社会学者の仕事の遂行性*に読者の注意を引く時、そこでは、上述の 取り組まれるべきタスク を飛び越してしまったうえで、──すこし強いいい方をすると──「問題の無いところに問題をたて、それを真剣に解く」ようなことが生じてしまっているように、わたしの目には見えてしまうのです。似たようなことが、同書所収の遠藤論文や北田論文にもいえます。もちろん、「社会学者の仕事の遂行性」を吟味することは、それはそれで意義のあることだと思います。
けれども、佐藤さんが言説分析を敢えてロジカルにフォーマライズし、北田さんがキットラーの感動的な遂行的示しを敢えてコンスタティヴに捉え返し、遠藤さんが「本当はそれすらもどかしい近似に過ぎない」
(遠藤論文 p.29)とかと語り‥‥、さらに──この本には登場しませんが敢えて登場していただくと──馬場さんが「敢えて失敗せよ。しかし決してそう望むことなしに」
(大意)とかと語り‥‥ という「社会学者のアリーナ」を遠くから眺めていると──「超越論的オマエモナ可能性transcendental monability が開示する場」という言葉が思い浮かんでしまうのとともに──、
- 【Q3】・・・つーかオートポイエーシス(or 言説の編成)どこいった?事柄を、要素とネットワークの構成関係に即して──あるいは、エノンセとディスクールの編成関係に即して──捉える、というタスクはどこにいったのだ?
という疑問が、あるいは──もう一歩強いいい方をすると──、これらの議論は ひょっとして「〈対象の自己構成を捉える〉などというタスクは(実は!)果たせない」という前提のもとで行われているのではないか? ‥‥という疑いが生じて来てしまいます。
そしてもしもそうだとすると、〈コンスタティヴ/パフォーマティヴ〉区別-に魅了される(©遠藤)-論者は──遠藤さんの顰みに倣っていえば──、「社会学は、社会学者のおこなう意味確定/意味確定解除手続きについては扱えるが、記述対象の側における意味確定/意味確定解除手続きについては扱えない」
と言ってしまっていることになります。
「社会は客観的に取り出すことはできない。だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」といった*──素朴な懐疑論に比べれば高級かもしれないが、しかし、素朴であれ高級であれ、懐疑論であることには変わりはないではないか、と。
* 〈「象徴的相互作用論」風-懐疑主義〉と──小声で──呼んでおきましょう。
‥‥しかし そうなのでしょうか?
05
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というあたりで7000字くらいになってしかも眠くなってしまったので続きはまた今夜、という方向で。
続きを書きました:id:contractio:20060603