社会学における最近の遂行性-強調的語調について(その2)

佐藤俊樹さんへのお返事。id:contractio:20060602 の続きです。

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佐藤さん曰く@isbn:4887136544

実証とは、対象の意味同定を有限時間内に終了させるための約束事になっている。[‥]実証性とはそういうゲームなのだ。[佐藤 p.11]

  1. 佐藤さんは、「実証性」をこうした↑手続として規定した上で
  2. これに対して「意味確定を宙づりにする」やり方を対置します。が、しかし、
  3. そうはいっても、言説分析もやはり、それが成果として(=論文として)刊行される時点までのどこかにおいて「意味確定を行う」わけでしょうから、
  4. つまるところ、
    • 一方では、文体は、いわば「不可能なことを敢えてやる」的な 否定に満ちた ものになり、
    • 他方では、「有限時間内のゲームをどのくらい遅延させるか」争う タイプのゲームとなる

‥‥と、議論はこういう事情になっているように思われます。

そして「ゆっくりと引きはがす」という表現は この場所に登場するのだ、と私は理解しました。


ここでも私としては、

  • ここで扱われているのは社会学的観察者の側の手続であること、そして/しかし、
  • 「意味同定にかかわる手続は、対象の側でも有限時間内に生じている」ということは 不問のままになっていること

を指摘してみたくなります。「対象の側における〈有限性〉」を考慮にいれれば、

上記引用部の命題をひっくり返して“「実証のゲーム」にしたがわないと 研究手続は時間的に発散する”を導く必要はありませんし(したがって、「無限性」に怯える(?)必要はありませんし)

「遅延」に訴える必要はなくなります。

そうであるからには「研究者の使える時間の有限性」を、この議論のキーに使わなくてもよい筈です。

あえていえば、ここで確認できるのは社会学者も 社会学の記述対象も、あれこれのことを、〈有限の時間〉のうちで なんとかやりくりしながら 成し遂げている」という──またもやトリヴィアルな=まったくもって常識的な──ことでしょう。

そして「実証のゲーム」は、その「やりくり」の仕方の、一つのあり方だ、というわけです。ただし、「実証のゲーム」のルールに従わない場合、分析のコストは遥かに高くつく、ということまでは 言えるでしょうが。

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分析の目標地点について、たとえば遠藤さんはこう語ります:

問題は、個々の実証的作業が全体としてどのような図柄を描くのか、記述が「記述」であるかぎり最終的に回帰することになるジャンル的同一性が、通常想定される言説ジャンルに対する複数的解体の思考実験の果てに見いだされているか、ということの方なのだ。個々の言説分析の有意味性を、主題に先立って方法論的に確定することができないのはそのためだが、そうしたことが可能であると錯覚したとき、少なくとも「言説分析」としては失敗するであろうということだけは言える。だから、言説分析の運動は、必然的に、閉じることのない多角形、読解/記述が進むにつれて面の数が増えていく多面体として出現することになる。ジャンルの本源的複数性は、あるべき閉じた分類一覧表上で見いだされるものとしてではなく、むしろ積極的に発散していく何かとして把握されている。[p.52]

‥‥これは相当に難解な議論で、ちゃんと理解できた自信はありません。が、──ボン・ボヤージュ!とは言わないまでも──「こんな難しい話にしなくちゃいけないのかなぁ」と素朴に思います。

少なくとも、こうした、推論のステップをほとんど辿ることができないような「ハードな」主張が、経験的な学としての社会学において必要なのだろうか(また、可能なのだろうか)という疑問は持ってしまいます。

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もっとささやかな、たとえばこのような↓議論が設定できそうにも思うのですが:

    • 自然科学(特に物理学)に範をとったやり方以外に──たとえば、モデルをつくるとか分類するとかいうやり方以外に──、経験的な学をたちあげるやり方にはどんなものがあるだろうか。
      という問への一つの解の与え方が
    • 社会学があつかう対象においては──その記述に先立ってすでに──、記述対象の側で、意味を用いて事柄が組み立てられているのだから、それに照準すればよい
      というものである

‥‥というような。

だから、分析は「その組み立てがうまく扱えているかどうか」という観点から吟味されるのだ、と。

それを出発点にしてよければ、たとえば、こうした↓トピックに対しても、別の見方ができるのではないでしょうか:

  • ある意味的定在の意味を確定できる一定の単位[‥]はおけないと考えるのが言説分析である。[佐藤 p.7-8]
  • [‥]あらかじめジャンル化された制度的言説(‥)を対象に選択すると、[言説分析は]まず成功しない。[遠藤 p.51]
  • ルーマンの精力的な仕事によって、「「社会学的分析の最小単位」を観察者がアプリオリに定めることの不可能性」を無視することができなくなった。[北田 p.84]

「「社会学的分析の最小単位」を観察者がアプリオリ定めること*」や、「意味的定在の意味の確定単位」を あらかじめ・前もって分析者が用意することに いみがないのは、また「あらかじめジャンル化された制度的言説」をあてにはできないのは、そんなことをしても〈記述対象の側で組み立てられている事柄〉にはまるで関係がなく・そこに届かない(=記述が-記述対象に対して-レリヴァンスをもたない)からです。言いかえると、対象の自己構成に照準すること-と-「意味単位」「分析単位」「ジャンル」「制度」を前提できないこと とは、「含意」の関係にあるわけです。しかもそれは「トリヴィアルな含意」です。

* これが有意味な営為ならば、社会学(有意味な)「一般理論」を組み立てられるかもしれないのですが。


ついでにいえば。
p.12 で触れられている「「言説」はいつも「濫用」の危険にさらされている」という事情についても──(当然のことながら)これもエスノメソドロジーにも同様にあてはまることですが──、もっとシンプルに考えることができるはずです。つまり、それは同じ事情──〈対象の自己構成を捉える〉というタスク-と-自らの作業の意味を その作業に-先立って-特定化できないという事情 が、トリヴィアルな「含意」の関係にある、ということ──によるのだ、と。

そして/だからこそ(!)、この事情は、「前もって」規定したいという欲望を呼び起こし、それが──あるひとたちにとっては──「魅力的」に見えてしまうのでしょう。エスノメソドロジーにおける そうした「濫用」の典型例のひとつを「批判的(!?)-エスノメソドロジー」にみることができます。
そういえば「批判的(!?)-言説分析」なんてのもありました(!)。
世の中には、──その作業に先立って・前もって──とにかく、名前の前に 「批判」と付けておけば とりあえず安心することができる ひとたちがいるらしい、ということのようです。これもまぁ....(以下略)

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さらについでに、ここで、通りすがりにいくつかのことを指摘しておくことができます:

  • これでもってエスノメソドロジストが社会学業界で忌み嫌われてきた理由の一つが確認できます。つまり、対象の自己構成に照準するという課題設定は、ジャンルの同一性を破壊してしまうわけですが、他方、連字符社会学の「連字符」の前についているのはまさに「制度的ジャンル」の名前です。したがって、(以下略)。
  • エスノメソドロジストが、こうした「遂行性-への-反省」レベルの話題に冷淡な態度を取ること*も理解できます。それは、タスクに対して「トリヴィアルな含意」の関係にあるトピックについて、「そのトピックそれ自体」を独立にとりあげて論じてみても仕方がない、と考えるからでしょう。(論じるならば、タスクとの関連のうちにおいて考えるべきだ、と。そして実際/なるほど、彼/女たちは、そうした議論──としての「反省」──であれば行っています。)
    * 同時にまた、「批判的エスノメソドロジー」におけるこの水準の議論への偏愛も。
  • 「意味確定単位を、観察者がアプリオリに定めること」が不可能であることから、「意味とは、一_般_的に 確定できないものである」という主張を引き出す必要はありません。(対象の側でも観察者の側でも、コンティンジェンシーを孕みながらも コミュニケーションは進んでいくのですから、これも──やはり──トリヴィアルな事柄です。)
    これは佐藤さんが いくつかの論文で、別のやり方で提起しているトピックですね。(『可能性』論考では p.10 あたり。2000年論文では p.44 の真ん中あたり。『インターコミュニケーション』no.57だとp.30上 あたり。) このうち、2000年論文での議論について(そしてそれについてのみ)は、日射の報告の中で扱う予定です。これは解釈の難しい箇所で 正直なところ苦戦していますが、しかし議論の全体を大きく左右する 重要な論点ではないか とおもいます。

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出発点を変えれば。
〈コンスタティヴ/パフォーマティヴ〉区別のもとで、不可能なまでに-否定的な-命令 として扱われていたことは、経験的な研究に相応しい もっと穏当なやりかたで扱ってあげることができるように思います。たとえば、「意図を〈個人〉や〈社会〉に回収してしまいがちであること」「ジャンルの同一性に頼ってしまうこと」などなどといったことに対して「禁止的命令」をつくりあげるのではなく、かわりに、そうした事情自体も、記述可能な-また-記述に値する 事柄であることに照準すればよい。

たとえば、「個人への帰属」に対して、ルーマンであれば「Person」という概念を用意しています。ルーマン自身はそれをあまりちゃんと「使って」いませんが、しかし、フォロワーたちが ちゃんと使ってあげればよい。

むしろ、経験的な研究のためには、たとえば、

  • 「使えるものならなんでも使ってよい」が、問題は、
    • 一方では、それがちゃんと〈対象の自己構成〉の把握に向けて進んでいるか ということにあり、
    • 他方では、それによって、対象の側が資源として用いていることを検討する際に、同じ資格で 観察者の側が資源として用いるものについても──その資源自体をトピックとして扱うことによって──併せて チェックすることができているかどうかだ

という構えをとってみることのほうが相応しいようにも思います。もちろん、これが「簡単なこと」だとは言いません(否、とても難しいことだと思います。でも、その難しさは、プラクティカルなものではあっても「理論的」「原理的」なものではないでしょう)。しかし、「不可能なことの追求」的──「パラドクスの展開」的──文体でそれを語るよりは、ずっと経験科学に相応しい ‥‥と、私は考えます。

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最後のほうは駆け足になってしまいましたが、これを「学術的な検討に値するレベル」で議論することは、私の能力を遥かに・簡単に超えます。10月の報告では、こうした大まかな方針をもって・そのもとで、もっとセセコマシい──主に佐藤さんの2000年論文の土俵に乗っかった上での──議論を、我々の力の及ぶ範囲で行うことになろうかとおもいます。その意味では、報告では扱えないことを、ここで──はなはだラフにではあれ──確認することができて、ありがたいことでした。
 その点についてお礼を申し上げるとともに、最後に、一番最初に掲げた問(→【Q1】)を、以上の議論を踏まえた上で、書き直してみたいとおもいます:

  • 【Q4】その議論においては、システム・リファレンスについて 事情はどうなっているのでしょうか。


どうもありがとうございました。お返事は以上です。

追記

以前お伝えした研究会では、その後、イアン・ハッキングの『魂を書き換えるisbn:4152081562』をめぐって行われた、エスノメソドロジストとの論争を検討しました。そこでは、「深層構造」「過去の再記述と不確定性」といったトピックが論じられ、ハッキングはそのなかで、エスノメソドロジストの批判を一部受け入れ、さらに──マイケル・リンチの勧めにしたがって(!)──ゴフマンとフーコーの議論を比較検討するような論文まで書いており、興味深いところです。
 文献検討自体はおそらく次回で終わることになると思いますが、そこでは主に、ハッキングのいう looping effect を検討することになるかと思います。そこで私個人としては、いっしょに『桜isbn:4004309360』のことが気になっています。『桜』は、ハッキングのいう「ひとびとをつくりあげるmaking up people」ことに関わるようなものではないかもしれませんが、それでも、桜についてのイメージと桜について語られること とのフィードバック・ループを扱っている点で、──直感的には──似たところのある議論ではないかとも思います。そこで、佐藤さんご自身が、looping effect について何か見解をお持ちであれば、(いつか)伺ってみたいところです。
‥‥と。書いてはみましたが、これはもうほとんど「おねだり」の域に足を突っ込んだ話ですので、読み流していただいてけっこうでございます(^_^;;;)