- III 目に見える秩序から「ディスポジティフ」へ
- 1 「ディスポジティフ」と「ネットワーク」
- 2 民族誌と「部分的な見え方」
- V 新たな問いへ
- 付記
III 目に見える秩序から「ディスポジティフ」へ
1 「ディスポジティフ」と「ネットワーク」
さらに[これまでのエスノメソドロジー研究における] 視覚への注目は、エスノメソドロジーに向けられる次のような批判を乗り越え、[ストラザーンが謂うような意味での]「監査的アカウンタビリティ」へと向かっていくためにも有効なものである。エスノメソドロジーは、しばしば次のような批判を浴びてきた。会話分析によって数秒から数十秒の相互行為に焦点を当てる大半のエスノメソドロジストが描き出すのは、世界が「いまここ」の相互行為の中から生み出される現象学的な世界である。だが、それで複雑かつ歴史的な状況を理解することが出来るのだろうか?
本特集の中川論文が指摘するように、この問題の鍵を握るのはフーコーの「装置」ないし「ディスポジテイフ(dispositif)」の概念や、アクターネットワーク理論のような人とモノの関係についての新しい見方である。(p. 503)
そこで『概念分析の社会学』ISBN:4779503140 ですよ。
上記引用の次の箇所に ちょっとコメントをば。
エスノメソドロジーとこれら[フーコーやラトゥール]の研究の間には興味深い共通点がある4。ひとつにはそれらがともに「視覚的な秩序」に焦点を当てている点である。[…]
中川が言うようにこれらの研究は、人々の認知、つまり物事を意味を持ち秩序だったものとして知覚する能力が、人とモノと言説の複雑な配置によって可能になっていることを示している。ここで重要なのは、
- エスノメソドロジーが実践の中での 場面の組織化 に焦点を当てるのに対して、
- これらの研究はこうした組織化を行うディスポジティフが形成される歴史性に注目している
点である。
- DNAの螺旋構造をそこにあるものとして「見る」ことを可能にしているのは、計測器のような道具からデータに意味ある関係を与える理論にいたる多数の人工物であり、人々は実践の中でこうした多様な人工物との関係を結びながら螺旋構造を「見る」。
- だが、ここで用いられる人工物はさまざまな歴史的経緯をへてそれぞれ別の場所で作られたものである。
つまり、ディスポジテイフの研究はエスノメソドロジーが明らかにした組織化の技法を支える多様な要素が「いまここ」での相互行為にとどまらない、歴史性と空間性を持つことを明らかにしてきたのである。(p. 503)
4 アクターネットワーク理論については、単なる共通点だけでなく、エスノメソドロジーからの強い影響が明らかである [LATOUR 2005]。
ここで著者が「エスノメソドロジー研究とこの特集の「立場」の違い」であるかのように提示している事柄は、私には単に、「著者さんにはエスノメソドロジストの友人がいない」ということを示しているように見えるのだが、それはさておき、いずれにせよ こうした対比は よろしくない。
以下、ほとんど何も考えなくても すぐに指摘可能なFAQ的なことを幾つか。
まず、
- [A] 「なにか或るものが、そのように見えるようになっている(visible)」ということは、如何にして可能になっているのか
という、この問い──「見えること」の可能性条件──を問うているという点では、フーコーとエスノメソドロジストに違いはない、という著者の指摘には賛成できる。
他方、対比のほうは「組織化-と-それを支える-歴史的装置」という形で──つまり、後者が前者の可能性条件を扱っているかのように──与えられているが、しかし私には、ここですでにもう混乱が生じているように思われる。これはいったい「何についての」比較なのか。
1
課題([A])が重なっていることから出発するなら、著者は たとえば、
- [B] 「見えること」の可能性条件についての研究には、どのようなヴァリエーションがあるのか
という比較をしたってよかったはずである。しかし、議論はそうなってはおらず、そのかわり(?)に 行われているのは、
- [C] 〈いま-ここ/それをこえる時空間〉という、物理的-常識的な意味での 時間的・空間的な「ひろがり」の幅
の比較になってしまっているように見える。
仮に──56億7000万歩ほど譲って──、両者の研究対象に「時空間の広がりの違い」があるのだとしてみよう。しかし──ごく常識的に考えて──、
- 長く広いものは、短く狭いものの可能性条件を与える
などということは言えない。だから、上の引用文には何か混乱があるに違いない。
2
さらにここには、ごくトリヴィアルな研究実践上の問題もある。
仮に──再び56億7000万一歩ほど譲って──「組織化」と「歴史的装置」の間に「〜を支える」という関係があるのだと想定して研究を進めてみたとしてみよう。一方では(ここでは、両研究が扱っている対象には「時空間的な幅の違いがある」と想定しているので)──常識的に考えて──
-
- 両研究が扱う資料・データ(の時空間的な幅)は異なっている
というのが普通だろう。ところが他方では──論理的に考えて──、
-
- 「〜を支える」ということが言えるためには、「組織化」と「歴史的装置」の間に、そもそも関係がある(relevant)のでなければならない
わけなので、つまり、
- [D] 異なる資料の間に、ひとつの同じ対象をめぐる関係がある
ことが示されなければならない。常識的に考えて、これはけっこう難易度の高い課題であるはずなのであって、それを考えると、上記引用文はかなり気楽なものに読めてしまいはする。
3
ともかくも、そうした点を踏まえつつ、もう一度引用文に戻って引用文を見てみると。
比較の部分には
- 場面の組織化
- こうした組織化を行うディスポジティフが形成される歴史性
と記されている。つまり対比は 組織化 を軸にしておこなわれているわけである。ということは、この議論においては、
- 場面の組織化に対して歴史的装置がどのように関係しているのか
ということに関する知識は、組織化の研究を介して入手されている
- 特定の時点・場面に 登場し・使用される「歴史的なもの」についての研究をするためには、
その特定の 場面の組織化 についての研究が必要だ
という事情になっているのではないだろうか。そうだとすると、このことはしかし、
- 「歴史的なもの」に関する研究と「場面の組織化」に関する研究を、別々のものとして分離したうえで、
一方が他方を補完する関係にあるものとして扱う
というやり方 に疑問を突きつけるはずである。
言い換えると、上記引用文のような対比は、「場面の組織化へのエスノメソドロジー研究の関心」なるものの範囲を あらかじめ著しく狭く受け取ることによって可能になっているのではないだろうか。
とはいえ、もし著者さんに『概念分析の社会学』を読んでいただければ、おそらくはこの認定を取り下げていただけるだろうと思うので、その場合には、上記引用文も、全体として撤回していただけるものと期待したいところである。
- 酒井泰斗&小宮友根(2006)「書評:片桐著『認知社会学の構想』」http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssst/docs/2006/43komiyasakai.html →移転しました:http://socio-logic.jp/events/ssst_2006_sakaikomiya.php
4
それはそれとして。
私が使った「「EMは〈いまここ〉についての研究である」という憶断」という表現から、ひょっとすると、次のような印象が生じてしまったかもしれない。すなわち、
- [K] エスノメソドロジーは「いまここ」しか扱わない。
という認定に対して、実は私は、
- [L] エスノメソドロジーは「いまここ」以外のことも扱うよ。
と返答したがっているかのようにみえてしまったかもしれない。そこで、この点についてもう少しだけ敷衍しておく。
- さまざまな研究を、それらが扱う 時空間の幅の〈狭さ/広さ〉 で分類する
そういう印象を生じさせないためには、こう述べるのがよいだろう:
- [M] いかなる社会的作動も、その作動にとっての現在において生じる。
ということは、
- [O] 社会的作動に関する研究は、(その作動にとっての)現在の範囲に限定してのみ行えばよい。
ということを まったく意味しない。
そうではなくて、[M] が研究実践に対して含意するのは、
- [N] いかなる社会的作動も、その作動の現在において利用可能なものを・現在において利用可能な形でしか利用できない。
ということに配意して分析を進めなければならないということ、これである((c) 渡邊二郎)。
他方、[O] についていえば、むしろ──常識的に考えて──事情は逆であろう。すなわち、
- [P] 社会的作動に関する経験的研究は、なんであれ それらの作動を理解するために必要な(=relevantな)・入手可能で利用可能な経験的資料の全てを用いて行われるべきである。
そして [P] は、これはこれでごく穏当かつ常識的な主張であろう。
それだけでなく、 [M][N] と [P] はまったく矛盾しない。
以上のようなことを書くことで、わたしは著者とこの特集企画を批判したいわけではない。
そうではなくて、著者のひとは──EMについてアンフェアな認定をしたことで──、エスノメソドロジーとフーコーの仕事の距離を 無駄にわざわざ遠くしてしまっている──が、そんな権利も必要もないはずだ──と言いたいだけなのであった。
言い換えると。
私が述べたかったのは、EM とフーコーの距離の測定という仕事は、それらが(著者が想定しているほどには)「遠くない」せいで、(著者が想定しているほどには)「簡単ではない」だろう、というほどのことであった。