バーンスティン『〈教育〉の社会学理論』

イガモト博士の攻撃によるダメージを緩和するためにチラ見。

“教育”の社会学理論―象徴統制、“教育”の言説、アイデンティティ (叢書・ウニベルシタス)

“教育”の社会学理論―象徴統制、“教育”の言説、アイデンティティ (叢書・ウニベルシタス)

isbn:4588099485
  • 序章 理論、実証研究、応答、そして民主主義──本書の焦点と背景

第 I 部 〈教育〉の社会学理論をめざして

  • 第1章 〈教育〉コードとその実践における諸様態
  • 第2章 〈教育〉装置
  • 第3章 知識の〈教育〉化──再文脈化過程の探求
  • 第4章 三科と四科についての諸考察──知者からの知識の分離

第 II 部 理論に照らした実証/実証に照らした理論

  • 第5章 コード理論とその実証研究
  • 第6章 実証研究と記述の言語

第 III 部 批判と応答

  • 第7章 社会言語学──個人的見解
  • 第8章 エドワーズと言語コード論──エドワーズの回答を含む
  • 第9章 言説、知識の構造、そして場──恣意的ないくつかの考察
  • 第10章 コード理論とその位置づけ──ある誤解のケース
  • 特論(講演記録) 再生産理論とP・ブルデュー──いくつかの論点を考える

第7章

 私の記憶では、1960年代と1970年代の社会言語学はまさに選択的で・視野の狭い社会学的基礎を有していた。ジョン・ガンペルツは別として、社会言語学エスノメソドロジストを魅了し、結果として、それは文脈内の発話表示に没頭しており、メンバーの実践的な遂行としての秩序の構築と交渉に本質的に関心をもっていた。当時、エスノメソドロジーは荒々しく・ラディカルで・救世主気取りの段階にあり・主流の社会学に敵対しており、その目からみれば、社会言語学は魅力的な当面の資源として見られていたとしても不思議ではない。メンバーのコンペタンス(能力、competence)、つまりコミュニケーション・コンペタンスを強調することは、歓迎を保証されることであった。コンペタンスが、分化の研究(レヴィ=ストロース)、コミュニケーションのエスノグラフィ(デル・ハイムズ)、子どもの発達(ピアジェ)、言語学チョムスキー)、会話分析(ガーフィンケルとその他)など、社会科学を横断して関心の焦点となった。こうして、文化的コンペタンス、コミュニケーション・コンペタンス、言語コンペタンス、認識コンペタンス、さらには、メンバーの実践的な遂行のコンペタンスが主張された。この時期に、我々は社会科学や様々な前提をもった諸領域(ある者は構造主義者、別の者は構造主義に徹底的に対立する者など)を横断する驚くべき収斂現象をもったのである。  コンペタンスが、文化的意味ではなく、社会的意味で概念化されたのは、コンペタンスが特定の文化の産物ではないという意味においてである。文化はいつも特化されているが、コンペタンスはどのような一つの文化にも特化されない。こうして、コンペタンスは権力関係の影響と制約を、そしてそれらの多様で不平等な配置を超えているのである。諸コンペタンスは本来的に創造的であり、相互行為のなかで、非公式的に、つまり暗黙のうちに獲得される。それらは実践的な遂行である。公式的で、明示化された手続きと制度のために特化されたコミュニケーションに対する敵対は、必ずしもコンペタンス概念に内在的ではないが、経験的にはしばしばそれと結びついている。こうして、私たちはラボフの「野暮天(lames)」やウィリスの「耳穴っ子」をもつことになる。  コンペタンス概念の社会的ロジックは、以下のことを明らかにする。
  1. 獲得の普遍的な民主制の主張。すべての者は本来的に有能(competent)である。欠損はない。
  2. 意味と実践が妥当性をもつ世界の構築において行動的で創造的な存在としての個人。そのような複数の世界、意味、実践の差異がありうるだけである。
  3. 日常、交互言語の使用を賞賛し、専門化された言語を嫌疑する。
  4. 公的な社会化機関は疑わしい。というのは、獲得は暗黙的なものであり、目に見えない行為であり、公的規制に従属せず、おそらくそのような規制をとおして、主に獲得されるわけではないからである。
  5. ヒエラルキカルな諸関係の批判。そこでは支配は促進に置き換えられ、強制は和解に置き換えられる。
おそらく、私たちは今、どのようにコンペタンス概念がリベラルな進歩主義と、破壊的な1960年代のラディカルなイデオロギーとに共鳴し、それらによって正統化されていたかを垣間見ることができるのだ。  しかしながら、どのように自分たちが位置づけられてきたのかということとの対照で、コンペタンスの理想主義、つまり我々の現在を賞賛することは、相当の代償を払って獲得されるのである。すなわち、実現の諸形態とそれらの獲得の様式を選択的に特化する権力と統制原理の配分の分析から個人を抽象することになるのである。こうして、コンペタンスの主張は、そのような特価から離れ、つまりミクロな文脈におけるマクロな しみ* から離れ、代わりに意味の探求と意味の実現の諸形態の選択的な特化を理解するキーとしての「差異」に注目する。差異には、支配集団によって優越性として正統化されるものもあるし、劣等性として判断されるものもあるが、しかしすべてのものが有能であるのだから、劣等性として判断された人びとの側の不適切なコミュニケーションという表示は、その表示が埋め込まれている文脈、相互行為、意味、基準、価値との関数であり、それらは支配階級によって作り出されるのである。  この戦いの場においてこそ、コード理論は文脈化された、いやむしろ選択的に再文脈化されたのである。[p. 251-252]
* 「しくみ」?
社会言語学者のなかでバーンスティンが評価してるひとリスト[p. 254]:
  • スーザン・エービン-トリップ
  • ダン・スロビン
  • コートニー・キャズデン
  • アラン・グリムショウ