涜書:飯田『ウィトゲンシュタイン』

夕食その1。
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040805#1091695544

後半戦。読了。

  • 13 哲学とは何か
  • 14 『哲学探究』まで(1)
  • 15 『哲学探究』まで(2)
  • 16 意味と理解
  • 17 私的言語
  • 18 数学の哲学
  • 19 心理学の哲学
  • 20 最期の日々
  • 21 科学主義に抗して

いくつかネタピックアップ。
17章「私的言語」>3「感覚の文法」。趣旨は『クリプキ』に同じ[]だが、より『探求』に即した議論になっていて(あたりまえか)、より積極的な主張──「直示的定義」ネタ──が含まれている。

[‥] クリプキの解釈が『探究』の解釈として失敗した理由は、私的言語の議論が置かれるべきコンテクストの探索が徹底していなかったことに求められよう。
 では、改めて問おう。「私的言語の議論」はどう解釈されるべきだろうか。確信があるわけではないが、私がいま惹かれているのは、「私的言語」というアイデア自体が、『哲学探究』第一部の議論のなかで、ある意味で通りすがりに考察の対象になったにすぎないとみなす解釈である。
【ざっくりと数段落略】
 そして、もはや詳しく述べるゆとりがないので、断定するだけになってしまうが、この議論にとって本質的なのは、検証主義や記憶の問題でもなければ、規則の問題でもなく、『探究』のごく初めの方──二八節から三四節あたり──ですでに議論されていた直示的定義の問題だと私は考える。そこでウィトゲンシュタインは、名前の指示の確定が、それが指示する対象を指し示すだけでは決してできず、どんな直示的定義も誤解される可能性をもつと論じている。[‥] 感覚の場合も同様である。「これがEだ」という直示的定義の理解は、「E」が感覚の名前であることの理解を前提とする。だが、「「感覚」という言葉は、われわれに共通の言語に属する言葉であって、私だけが理解できる言語に属する言葉ではない」。(『探究」二六一節) つまり、「E」について問題なのは、標準的解釈のように、その事後の使用が正しいかどうか知ることができないということではなく、そもそも「E」が最初から意味をもちえないということなのである。
 こうした読み方はあまり魅力あるものではないかもしれない。それによれば、「私的言語の議論」は、後期ウィトゲンシュタイン哲学の中心にあるどころか、比較的周辺部に属するものとなってしまうだろう。だが、そう言うことは誤解を招きやすい。後期ウィトゲンシュタインの哲学的考察には中心もなければ周辺もないというのが、むしろ実状に近いからである。そして、この考察が、心についてのわれわれの見方に対して、ハッカーが言うような広大で深刻な帰結をもつことは、私も疑わない。つまり、「外的世界」に対して「内的世界」が存在するという、心と世界についての描像、ならびに、意味や理解はすべて「内的世界」で生じる出来事だという、言語についての描像、このどちらもが根本的な誤解のうえに成り立っているという帰結である。しかしながら、そうした帰結をもたらすような結論を、何かひとつの「議論」、ひとつの「論証」によって確立できると考えることは、ウィトゲンシュタインの思考法とは根本的に相容れないだろう。[258-260頁]



「理論」について。21「科学主義に抗して」>2「理論への誘惑」。 こちらの記述のほうが、より丁寧なパラフレーズになっている。

[312-316頁]



ついでに。「remind」。[ウィンチの発言も想起せよ。]

ウィトゲンシュタインの教えること
西洋の哲学の歴史の全体を通じてもっとも有名な言葉のひとつは、「多くのひとは知らないのに知っていると思っているが、私は自分が知らないということを知っている」という『弁明』のなかに出て来るソクラテスの言葉だろう。ウィトゲンシュタインの考え方は、この正反対である。この言葉をもじって言うならば、「哲学にはまりこんだ人々はみな、知っているのに知らないと思っているのだ、そして、私の役目は、本当は知っているのだということをそうした人々に思い出させてやることだ」というのが、ウィトゲンシュタインの立場である。
 こう考えるならば、哲学における「テーゼ」がなぜ、だれからも即座に同意されるようなものでなくてはならないとウィトゲンシュタインが考えたかが理解できる。哲学的問題に悩まされているひとは、だれもが知っているはずのことを、ある原因から知らないと思っているにすぎない。したがって、そうしたひとにそのことを思い出させようとする努力が「テーゼ」の形で述べられるならば、哲学的問題に悩まされていない入々には、当然あたりまえのこと、同意するまでもないことのようにみえるはずである。もちろん、哲学の呪縛にとらわれているひとにそうはみえないということは十分にありうる。そうした「テーゼ」で述べられているあたりまえのことが、そもそも謎めいたものとして現れるということが、哲学の呪縛の特徴だからである。
 また、広い意味での「理論」──それは、いくつかの主張とそれからの論理的帰結の全体にすぎない──が、なぜ役に立たないのかもわかる。哲学は、何か新しいことや、新しい見方を教えるのではない。それは単にだれもが知っているはずのことを「思い出させる」だけである。(ここにはたしかに、『弁明』の作者であるプラトンとの大きな類似がある。だが、同様に、両者のあいだの相違もまた大きい*。) 「知っているのに知らないと思っている」ひとはもちろん、ある大事なこと、つまり、自分が知っているということを忘れている。だが、それだけではない。そこには誤解があるのだとウィトゲンシュタインは言う。誤解があるからこそ、ひとは、知っているのに知らないと思い違いしてしまう。一般に誤解を解くためにひとは何をするだろうか。理路整然と理屈を説くという場合もあろう。だが、そうすることが常にいちばん有効な方法であるとは限らない。誤解をそのまま実演してみせることや、たとえ話をすることの方がずっと有効だというのは、十分ありうることである。その理由は、誤解の根が必ずしも知的なものとは限らないからである。誤解はしばしば、ある種の感情に彩られている(‥)。[316頁]

* Anamnesis と remind のあいだの相違は、もちろん「大きい」。 にもかかわらず、ウィトゲンシュタインに従って──reminderについて語って──いるつもりで「アナムネーシス」を語ってしまっていることがありうる、──と示唆している文章だと読むこともできる。(haecceitas について「普遍的・一般的に」語ってしまうことがありうるのと同様に。[参照])



今日のコネタ。『哲学探究』最終頁。

 心理学における混乱と不毛は、それが「若い科学」であるということで説明されてはならない。心理学の状態は、たとえば、物理学の初期の状態と比較されるべきではない。(むしろ、数学のある分野と比較できよう。集合論。) つまり、心理学においては、実験的方法とそれに加えて概念的混乱とがある。(後者において、概念的混乱と証明の方法があるように。)
 実験的方法の存在は、われわれを悩ます問題を解決する手段があると思わせる。たとえ、間題と方法とがすれ違っているとしても。[281頁から孫引き]

「実験的方法」って言葉を「計量的方法」に換えれば、社会学の話になるような。