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Ⅱ フレーゲとウィトゲンシュタイン
Ⅲ 真理・様相・意味
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お買いもの:飯田 隆(2020)『分析哲学 これからとこれまで』
メモ
序
- 9
・『論理哲学論考』には「およそ語りうることは、明瞭に語りうる」と語られている。
・『論理哲学論考』は語りうることについて語っているのではないのかもしれない。 - 28 『哲学の革命』ISBN:B000JAY4IU は、「日常言語学派の哲学者にも、論理実証主義者のような「革命志向」があったことを証拠立てている本である。」
- 14「クワインは、論理実証主義を経験論の一段階と特徴づけたが、いまではこれが完全な誤りであることが明らかになっている。この運動の中心にいた哲学者たち、すなわち、シュリック、カルナップ、ライヘンバッハはいずれも、新カント派に属する哲学者としてその哲学的経歴を始めている。有名なカルナップの『世界の論理的構築』(1928年)にしても、ヒューム流の現象主義を擁護するものではなく、むしろ新カント派のカッシーラーの『実体概念と関係概念』(1910年)と共通する立場から書かれたものであり、これはシュリックやライヘンバッハも共有していた立ち場である。この立場からの脱却を促したものが何であるのかを突き止めることは、分析哲学的伝統とは何であるのかという問いに答えるための大きな手がかりを与えてくれるだろう。」
I「分析哲学とは何か?」
- 41 哲学的言語分析の三原則:
①漢字熟語を分析の対象としてはならない
②語を単独で考えてはならない
③定義を目指してはならない - 52 「概念を明晰にするということが何に存するのかについては、現在二つの有力なパラダイムが存在する。一方のパラダイムによれば、問題の概念をそのなかに位置づけることができるような理論を構成することによって、概念は明晰なものとされる。」<br>もう一つはウィトゲンシュタインのもの。
前者のパラダイムにおいては、「定義すること自体が重要なのではない。概念の定義によって、その概念が、ある理論のなかに位置づけられ、その同じ理論が扱う他の一連の概念とどのような関連をもつかかまざ明らかにされることが重要なのである。」 - 58 「理論を構成しようと試みることによって得られるものが何もないわけではない。それは、概念間の論理的関係を一歩一歩辿ることによって獲得される一種の「土地勘」である。それに対して、同じ土地を一望のもとに鳥瞰する地点に立つことが「完全な明晰さ」をめざすことであるあと言えよう。ある土地をよく知るために、この両方を試みていけないという理由はないだろう。」
ここでは概念分析と理論化が
・概念を定義し、
・その概念をある理論のなかに位置づけ、それによって
・一連の概念とどのような関連をもつかを明らかにする
という仕方で結び付けられている。
この議論は非常に面白いし、こと〈哲学の内部で〉両者を比べている限りは明解な対照に見える。
しかし、ここにエスノメソドロジーを置くと、この明解さは崩れるだろう。その点でも面白い。エスノメソドロジーがやっていることを捕まえて、あれが「鳥瞰」だと言う者は誰もいないだろう。むしろ「概念間の論理的関係を一歩一歩辿ること」に相当する作業にみえるのに、それは理論の構築を目指していない。では、飯田御大の議論のどこを調整すれば、ここにエスノメソドロジーの居る場所を確保することができるだろうか(というのは誰が考えるべき問題なのだろうか)。
ここで問うてもよいだろう一つ目の問題は、「「概念間の論理的関係を一歩一歩辿る」やり方はこれしかないのか」というものであり、二つ目の問題は、「ではウィトゲンシュタインの方は何をしていたのか」というものである。しかし、ここにエスノメソドロジーを置くと、この明解さは崩れるだろう。その点でも面白い。エスノメソドロジーがやっていることを捕まえて、あれが「鳥瞰」だと言う者は誰もいないだろう。むしろ「概念間の論理的関係を一歩一歩辿ること」に相当する作業にみえるのに、それは理論の構築を目指していない。では、飯田御大の議論のどこを調整すれば、ここにエスノメソドロジーの居る場所を確保することができるだろうか(というのは誰が考えるべき問題なのだろうか)。
- 一つ目の方を言い換えると、「「理論のなかに概念を位置付ける」という作業をしているのではないのだとすれば、ではエスノメソドロジーは、いったい何をどうすることでもって「概念の論理的関係を一歩一歩辿る」仕事を実現しているのか」ということ。
- 二つ目の方を言い換えると、飯田さんのいう「一歩一歩」とウィトゲンシュタインのいう「鳥瞰」は どういう関係にあるのか、ということ。
- 78【教訓】 「色について哲学的に論じたいのであれば、色の科学をマスターしなければならない。」
この教訓は、現在専門的学科としての哲学の内部で進行中の事態であって、将来的にこの学科を大きく替えてしまう可能性があるものだけど、一般読者の耳には──応用倫理など一部を除けば──ほぼまったく届いていないものではないか。わたしは、こういうのを「自然主義」と呼ぶような言葉遣いに従う気はまったくないですが、「調べながら考える」って言われたら「ですよねー」って思います。
II「フレーゲとウィトゲンシュタイン」
- 106 「論理学のための言語こそ、言語の歴史のなかで、その語彙と文法と意味とが明示的に指定された最初の言語である。」
- 107 転記の方法には二つある:
・体系的パラフレーズ
・コード - 115 「言語論的転回のもとでの哲学にとって、言語とは、自然的で経験的な存在ではなかった」
- 128 「『論理哲学論考』は、哲学的問題がすべてわれわれの言語の論理の誤解から生み出されるというメッセージを含んでおり、それは哲学の「言語論的転回」を決定的なものにするだけの力があった。だが同時にそれは、われわれの言語の構造は、論理学を通じて明らかにすることができ、世界の構造は言語の構造と対応しているから、世界の構造もまた、論理学を通じて明らかになるという建設的なプログラムも含んでいるように見えた。『論理哲学論考』の誤読から生み出されたこのプログラムは、1920年代から1970年代という、半世紀を超える期間にわたって多くの哲学者を引きつけた。いや、そんな具合に、まるで他人事のように言うのは、よくないだろう。私自身かつて、こうしたプログラムに強く魅せられたし、いまでもその魅力に逆らうのに困難を感じるからである。」
- 169 「ただ、論理実証主義者がウィトゲンシュタインと決定的に違うところは、「哲学とは知的な成果を生み出すことを目指す理論的な営みである」というかんがえかたが、どうしても抜けなかった点だと言えます。」
〈哲学〉を〈社会学〉に替えると、これはブルデュー先生にも当てはまりますね。
III「真理・様相・意味」
- 土屋俊(1999)「モダリティの議論のために」『真の包括的な言語の科学 (土屋俊 言語・哲学コレクション第1巻)』