再訪:非連続性/認識論的断絶/長期持続

denebさん、お返事ありがとうございました。



酒井曰く:

ちなみにdenebさんは、論考中のどこで (3)*が示されている、と思いますか?

*「非連続性を働かせることは、エピステモローグ&アナールに共通の仕事である」という主張(のもっともらしさ)。[参照:20041019#p3
denebさん曰く:

ということですが、「非連続性の概念自体が在り方[ステータス]を変えたのだ」という文章以下で、(3)が示されているのでは、と思いました。
 簡略化してしまいますが、その変化した(らしい*1)「非連続性の概念」の「役割」は以下の三つらしいです。つまり

  • 歴史的研究の道具
  • 歴史的研究の結果
  • 歴史的研究の対象

の三つ。むかしはそうではなかったが、いまでは歴史家は[アナールのひともエピステモロジーのひとも]、これら三つを働かせながら、仕事をしている、と。
 こうした「物語」に賛同するかどうかは別として、これは「理論的」にはわかりやすい指摘なのでは、と思います。つまり、これら三つのうち一つ──つまり、歴史的研究の結果──だけを見ると、アナールの「連続性」とエピステモロジーの「非連続性」は「パラドクス」のように見えるが、ほか──道具や対象──というか全体(=歴史家のじっさいの仕事)を考慮に入れるとそうではない、という指摘はわかりやすいのでは、と思います。(というか、わたしにはそのように読めました。)もちろん正確にいえば、パラドクスが解消される、というよりは、パラドクスがその位置づけを変える、ということなのでしょうけれど*2。

*1:というのは、わたしはフーコーのこのテの言明をあまりマジメに受け取りたくないからなのですが(w だって‥‥ねえ?(←なに)
*2:で、その「位置」が「どこ」で、「どんなこと」なのかについて、フーコーはほとんどなにも語っていないと思いますけれど。位置が変わった、といっているだけで。



さて。
言及された箇所は、私にとっては意味(というよりも意義*)がよくわからなかった場所なので、「「理論的」にはわかりやすい」という指摘を読んで少し驚きました。が。

あと、「理論的」という修飾語の意味がわかりませんでした。
* おおくの「ふつうの歴史家」も、「こんなことふつうにやってますが何か?」と言うのではないかと思われるので。(つまり卓越化の役にたちそうにない、ということ。)
まず、──なにしろよくわからなかった箇所なので、読み方については自信が無いのですが、しかし──この↑まとめは疑問に思いました。とりあえず、フーコー自身が使っている表現を言い換えずにそのまま箇条書きすれば、まとめとしては、こう↓なるかと思います:

  • 「非連続性は歴史学の分析において三つの役割のもとに現れる。」
    • A:それは、歴史学的分析の「手続きをかたちづくっている」。
    • B:それは、歴史学的分析の「結果である」。
    • C:それは、歴史学的分析の「概念である」。[59:0103]

「道具でも対象でもある」という文言は、C「概念」の項の中に──〈諸領域の「個別化」と「比較」〉-および-〈「単位を崩す」と同時に「単位を打ち立てる」〉と 並列に──、登場するものですよね。


それはそれとして/しかしそれ以前に。
いま私が気にしているのは、

    • 「非連続性を働かせることは、エピステモローグ&アナールに共通の仕事である」という主張を、フーコーは、どのようにしてもっともらしいものとして示せているか

ということでした。この疑問に対して、

    • 「歴史家のじっさいの仕事を考慮に入れると」パラドクスではない

を答えにあてるのでは、問いを一つずらしたことにしかなっていません。というのも、

  • それでは、「エピステモローグ&アナールのじっさいの仕事」において、「非連続性」は、
    • どのような仕方で「認識論的断絶」かかわっているのか
    • どのような仕方で「長期持続」とかかわっているのか
      • そしてそれらはどのような意味で「同じ」だといえるのか

という──一歩退いた*1──問いがあらたにたてられるだけだから、です。

ちなみに──通りすがりに書いておくと──、私は、「<非連続性>ひとつでこの問いに答えるのはそもそも無理だろう」と思いながら「59」を読んでいたのですが、先ほど読み始めた(その翌年の)『考古学』では、やはり「非連続性」のみに訴える事はやめているようです。
「ごもっとも」でしょう、と思いました。

*1:「進んだ」でもかまいませんが。