denebさん、お返事ありがとうございました。
酒井曰く:
ちなみにdenebさんは、論考中のどこで (3)*が示されている、と思いますか?
ということですが、「非連続性の概念自体が在り方[ステータス]を変えたのだ」という文章以下で、(3)が示されているのでは、と思いました。
簡略化してしまいますが、その変化した(らしい*1)「非連続性の概念」の「役割」は以下の三つらしいです。つまり
- 歴史的研究の道具
- 歴史的研究の結果
- 歴史的研究の対象
の三つ。むかしはそうではなかったが、いまでは歴史家は[アナールのひともエピステモロジーのひとも]、これら三つを働かせながら、仕事をしている、と。
こうした「物語」に賛同するかどうかは別として、これは「理論的」にはわかりやすい指摘なのでは、と思います。つまり、これら三つのうち一つ──つまり、歴史的研究の結果──だけを見ると、アナールの「連続性」とエピステモロジーの「非連続性」は「パラドクス」のように見えるが、ほか──道具や対象──というか全体(=歴史家のじっさいの仕事)を考慮に入れるとそうではない、という指摘はわかりやすいのでは、と思います。(というか、わたしにはそのように読めました。)もちろん正確にいえば、パラドクスが解消される、というよりは、パラドクスがその位置づけを変える、ということなのでしょうけれど*2。
さて。
言及された箇所は、私にとっては意味(というよりも意義*)がよくわからなかった場所なので、「「理論的」にはわかりやすい」という指摘を読んで少し驚きました。が。
- 「非連続性は歴史学の分析において三つの役割のもとに現れる。」
それはそれとして/しかしそれ以前に。
いま私が気にしているのは、
-
- 「非連続性を働かせることは、エピステモローグ&アナールに共通の仕事である」という主張を、フーコーは、どのようにしてもっともらしいものとして示せているか
ということでした。この疑問に対して、
-
- 「歴史家のじっさいの仕事を考慮に入れると」パラドクスではない
を答えにあてるのでは、問いを一つずらしたことにしかなっていません。というのも、
- それでは、「エピステモローグ&アナールのじっさいの仕事」において、「非連続性」は、
- どのような仕方で「認識論的断絶」かかわっているのか
- どのような仕方で「長期持続」とかかわっているのか
- そしてそれらはどのような意味で「同じ」だといえるのか
という──一歩退いた*1──問いがあらたにたてられるだけだから、です。
*1:「進んだ」でもかまいませんが。