- 作者: ミシェル・フーコー,小林康夫,石田英敬,松浦寿輝,Michel Foucault,蓮實重彦,渡辺守章
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/07/01
- メディア: 単行本
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再訪。(何度目なのかは もうわからないw。)
59の論考がなぜわけわからんのか、もいちど読んだらその理由が(やっと)わかった。
フーコーはここで、冒頭で自分がたてた問いに 答えていない。 なので、読者は、書いていないその答えを探して途方に暮れる事になる──、という事情なのだった┐(´ー`)┌
確認。
私は、いわゆる歴史家の人々が連続性を抽出している一方で、思想史家の人々は不連続性を明るみに出しているという、こうしたパラドクスから出発しました。これら二つの方向はしかし、歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果であると私は考えます。[66: p.199]
知りたいのは、
- 歴史家[=アナール]の人々が連続性を抽出している一方で、
- 思想史家[=エピステモロジスト]の人々は不連続性を明るみに出している
という、こうした
-
- (双方を尊重しようとすると)パラドクス(に陥る事になるようにみえる事態)
が、しかし
-
- 同一の方法的再考によってもたらされた(‥)効果である[=パラドクスではない]
といえるのだとしたら、それは どういう仕方で なのか、である。
これは 私が ではなくフーコーがたてた問いであることよ。
ここから出発してパラドクスを脱する方向は、論理的にはあれこれ考えられる。が、59の論考においては、フーコーは 、「非連続性」のほうを擁護し
たうえで、「言説の分析」を「非連続性」にもとづいてどのように打ち立てるか を論じ
ているのだから、それを前提とした方向は一つしか無い。つまり、
という主張*をするしかない。
* そして確かに(もしもこのように主張されるなら)それはもっともなものに聴こえる。
ところが、(期待される)その主張のかわりに彼が述べるのは、次の主張なのだった。
歴史的研究のある種の領域[〜エピステモロジー]は連続性から非連続性へと向かい、他の諸領域[〜アナール]──ほんらい歴史学そのものというべきもの──は雑多な非連続性の蝟集状態から、中断されることのない諸々の大きな統一的単位の研究へと向かったのだ、などと想像してはならないのである。じっさいは、非連続性の概念自体が在り方を変えたのである。 [5903]
「非連続性の概念自体が在り方を変えた」???──よろしい。
では、そうだとしたら、件の「パラドクス」は、どう考えられる事になるのか?
どのような意味でパラドクスではない──どころか、「歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果である」──のか???
そしてまた、「長期持続」概念は、「非連続性」という操作的概念と どのような関係を取り結ぶ事になるのか?????
残念ながら(しかし当然ながら)、これ↑について(も)、彼はまるで論じていない。そしてまた、「長期持続」概念は、「非連続性」という操作的概念と どのような関係を取り結ぶ事になるのか?????
それどころか、「長期持続」に関連する術語・表現*は、冒頭に出て来たあと、もはや一度も登場しない(それでは、そもそも「脱パラドクス化」などされようがないw)。
* フーコー自身が使っているのは、たとえば「長い時代区分」「沈殿層」「物質文明」などの言葉。すべて [5901] にしか登場しない。
結局?
──とりあえず59(および66)に限って謂えば、“エピステモロジーは非連続性へと向かい、アナールは連続性「へと向かったのだ、などと想像してはならない」” などと なぜいえるのか、ということについて、フーコーはまるで語っていない、ということ。
ワケワカラン┐(´ー`)┌