原さんにコメントをいただきました。ありがとうございます。私も「お返事」というよりは・やはり「コメント」になるであろうものを。
原さん曰く:
- [01] まず、ぼくはあまり「歴史学」には頓着していないですね。 読む機会があるのは、たいてい「書物の歴史」、「電信の歴史」、「映画史」など、よりマニアックには「ストラスブールの××工場の歴史」などになります。こうしたテーマ的な歴史は、対象そのものによって、かなり長くも短くもなります。
- [02] フーコーが、いわゆるニューヒストリーを考慮していたのは間違いないと思うのですが、ぼくの頭のなかでは、「長い歴史」がかならずしも単一的なアナール学派を指すようにはイメージできないのです。
- [03] くだらない話ですが、「世界の歴史」「フランス史」などの本は果てしなく長い歴史になりますよね。たしかに時期は長いのですが、よくよく厳密に考えると、「世界の歴史」のなかには人為的による以外は連続性がないのに、あたかも連続するかのように語られてきたのが古い歴史のようにも思われます。
- [04] アナール学派の単一的な特徴があるとしたら、やはり「匂い」「売春」「地中海」「書物」などの、「テーマ」をベースに歴史を扱うという点ではないでしょうか。
- http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041018#c([]付き数字は引用者。)
[01] について:
その点については私も同じです*1。ただし、私の場合は単に、歴史学に疎いという事情によるものですが。いまフーコーを再読してみようと思っているのは、主に、「過去を記述する事はどんなことなのか」という問い
[02] について:
この点が──今回、『考古学』(周辺)を再読して──確認したかったことでした。現時点での結論は──原さんの見解とちょうど逆になってしまうように思えますが──、「フーコーが「長い歴史」という言葉で指しているのはアナールである」です。
この分野について、原さんと私との間には、素人と学者ほどの*3知識の懸隔があることは自覚していますから、「私の知らないフーコー」や「私の知らない(他の)知識」に基づいて、原さんが別の見解を引き出しうる可能性を否定はしません。が、少なくともいま私の手元にある文献(『考古学』『集成3』『ディスクールの秩序』)だけに限って言えば、上のようにいえるだろう、といまのところは考えています。
[04] について:
私のほうは──『考古学』周辺の論考を読み直してみるまでは──、「アナール派の特徴」というものがもしあるとすれば*4、それは「資料の拡張」だろう、と漠然と考えていたわけです。それはそれで間違っているようには思わないのですが、この点に関して興味深かったのが、フーコーの次の発言でした。[59:0104]
私たちの時代において、それらの学問[=歴史学、そしてより一般的に、歴史的な学問領域]を印しづけた大きな変化とは、
- それらの学問の領域が経済的メカニズムにまで拡大したことにあるのではない。
- そのようなことならずっと以前から知られていた。
- あるいはまた、イデオロギー的諸現象や、思考の諸様式や、心性の諸型が、それらの歴史的学問に組み込まれたことでもない。
- そのようなことであれば十九世紀にはすでに分析が行われていた。
大きな変化とはむしろ非連続性の変換である。
これが印象深いのは、「経済学への依拠(/計量的手法の導入)」も「心性の諸型についての着目」も、ふつうに「アナール派の*5特徴」として語られているところのものであることであるのに、
上にも書いたように、フーコーのこの発言は、
-
- アナール派(の第1・第2世代)に積極的かつ思い切り追随する姿勢をみせている
ように読めるものですが、しかしそれはまた、
-
- これまで通常「アナールの特徴」とされてきたもの以外のところでの──したがって、アナールへの評価をフーコーなりにやりなおしたうえでの──「追随」だ、
ということなのだ、と読めるものです。 したがって/さらに──ここからストレートに──、『知の考古学』の課題(の少なくとも一つ)は、
-
- 「アナールの仕事をどう評価したらよいのか」ということへの、フーコーなりの答えをだす事だ
ということも言えるはずでしょう。
これに関連してもう2点。
まず(──これは [03] とも関わるかも知れませんが)。
「長い歴史」が、アナールの「通常の評価」の(主要な)一つである以上、ここで導きだされる結論(のコロラリー)が、
-
- 結局、「長い」とか「短い」とかいったことが問題ではないのだ
ということになる、ということであれば、私はその見解に賛成する事ができます。が、それはあくまで、「結論(のコロラリー)」としてであって「前提」としてではありません。問題は──当然ですが──結論にどうやってたどりついたのか、ということのほうですから。(そのプロセスがみえなければ──これも当然の事ですが──、検討を加える事もできないわけですし)。 したがって──逆に──、フーコーが実際に・おおむね「短い歴史」を書いたからといって、そのことから、それをフーコーのスタンス(の特徴付け)として使う事にも疑問を感じます。
メディオロジーの立場から「考古学」を読むときに、最大のポイントとなるのは、ルロワ=グーランの人類学のような「長い歴史」(メディア圏)をとるか、それともエピステモロジーのような切断の歴史をとるか、という問題である。
[‥]「短い歴史」の分析方法の導入として、「考古学」に学ぶことは大きな意味がある。[『メディオロジー入門』2-5]
しかし..... ──「「長い」とか「短い」とかいったことが問題ではないのではないだろうか?」と言いたくなるわけです。
そしてもう一点。
アナール派を「「テーマ」をベースに歴史を扱うという点」で特徴づけることにも疑問を感じます。
というのは
この点については──私などよりはるかに時間をかけて考えておられるであろう──原さんの見解を、もう少し詳しく伺ってみたいところではありますが...。