読書会@西荻 http://socinfo.g.hatena.ne.jp/contractio/20060730
Die Gesellschaft der Gesellschaft
- 作者: Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Imprint unknown
- 発売日: 2007/05/24
- メディア: ペーパーバック
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■本日参照した出不ろぐ:
- http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041103#p6
- http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060720#1153407553
- http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060724#1153684449
- http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060725#1153837025
「法コードのパラドクス」ネタについてのメモ(追記):
- 法律家はルールに頼ることができ、それによって二分コード化されたシステムのなかで働いていることを忘れうる。が。
- コード値の間の差異の統一性という問題が、システムのなかで再浮上してくる。その際、問題は、決定不可能性という形式をまとうこともありうる。[isbn:458800767X 4章「コード化とプログラム化」p.221]
この手の↑の「パラドクス噺」にどれほどの価値があるかということは、こういう↓「いつもどこでも起こるってわけじゃない特殊な事例」としての史実ネタが、〈メディアコード論〉のなかでどのような位置を占めるのか=扱いを受けるのか、ということに依存するはず。
この点について何がいえるかということに関しては、いまの議論水準においては まったくもって明らかではない(と私はおもうがどうか)。
- 周知のように、かつてこの問題が〔アテネ最高法院がおかれていた〕アレオパゴスにおいて生じたときには、アテナの助力が必要とされたのであった。
- 現在ではこの問題は、判決を拒絶することを禁止するというかたちで、裁判制度の構成原理のなかに組み込まれている。
- そしてその問題が今度は成長の原理として働いて、法曹法を生み出してきたのである。
どちらかというと手続法の領域に属するこのケースに加えて、実体法上の問題も存在する。
- 排除されたパラドクスがシステムへと回帰してくるときに、そしてそれはまたどのようにして生じるかを考えた場合に、その問題が浮上してくるのである。
- それはすなわち、法の濫用の問題である[p.221-222]
次回は....