届いた。夕食前半。
著者さんのサイトで あとがきが公開されてます:http://www2s.biglobe.ne.jp/~sug/ps.html

- 作者:杉山 直樹
- 発売日: 2006/10/01
- メディア: 単行本
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第一章

- 作者:アンリ ベルクソン
- 発売日: 2002/06/01
- メディア: 文庫
■p.22-24
[ベルクソンとサルトルの対立点は、]サルトルが思ったような場所にはないのである。真の問題は、その次の段階において初めて現れてくる。それはつまり、サルトルも語っていた「内在的統一」、流れの中で時間的に成立してくる統一性とはいったい何か、それはどう記述されるべきか、という問題である。[‥]
志向性概念と時間
ところでこの「内在的統一」の概念をサルトルは、フッサールの『時間意識』講義isbn:4622019221 から取り出してきたのであった。サルトルはさしあたり意識の統一に二つの水準を見分けている(Ego, pp.21-23 isbn:4409030558)。
- 一つは、「意識とは……についての意識である」という公理とセットとなるものであり、それは「ある超越的対象についての」という形での諸意識の統一、対象の統一と不可分な意識の統一である。
- もう一つが、その超越的対象を時間の流れの中で措定するためにもまず必要な、主観的な統一であり、この時間意識の統一を論じるにあたってサルトルはフッサールの『時間意識』講義への参照を求めたのである。
こう語るサルトルの意図は、いずれの統一においても、「私」というものは必要とされていないことを示す点にあった。
- 第一の対象志向的統一は、超越的対象だけを必要とする。
- 第二の内在的統一は、意識の(‥)自己統一であって、ここでも超越論的「自我」というものはその総合の条件ではなくむしろ結果に過ぎない。
だから、というわけである。しかし[‥]そこにあるのは二つの全く異種的な統一、二つの全く異なる意識ではあるまいか。そして[‥]、以上のサルトルの議論は、実はベルクソンもほとんどそのまま認めるはずのものなのだ。以下次第に明らかになるように、「純粋持続」とは、その成立のための総合者としての「私」を必要としないものとして提示されているのであって、この点では再び両者は一致するはずだ。
■p.25-26
ここでもし仮にベルクソンがサルトルに再批判を行うとしたら、それは次のような問いを通じてであろう──では、その「内在的統一」をそれとして語るために、「志向性」の概念は有効なのだろうか。それを「内容」なき「軽快さと透明性」(Ego, p.25)で語ることはできるのだろうか。むしろそこには、フッサールが「ヒューレー」と呼んだある実質的な何かなしに語れない事態がないのだろうか。[‥] そしてそもそも、時間を「超越」や「否定」として描くことは本当に適切であるのか。もちろんサルトルであれば、過去-現在-未来といったいわゆる時間の三つの次元は、相互に否定しあいつつ、まさにそのことで一つの結びつきを有していると見做して、それによって時間論を構成してみせるだろう。しかし時間とはいったいまずもって、「もはや-ない」過去と「いまだ-ない」未来との間での現在の「脱自」なのだろうか。「あるところのものではあらず(過去)、あらぬところのものである(未来)」といった、肯定と否定の交錯、存在と無の弁証法的絡み合いによって描かれる時間概念とは本源的なものだろうか。
ベルクソンはそこで対立することだろう。そうした描き方は、実際には、ベルクソンが捉えた時間についての 事後的な語り方、ベルクソン風にいえば ごく「知性的」な語り方であることだろう。[‥]──ベルクソンが語ろうとしているのは、欠如や無によって駆動されるのではない生成、否定によってではなく端的な自己継続によって成立する生成なのであり、「純粋持続」とはそれを名づけるための語であった、と。
なお、本文内に ISBN番号は含まれておりません。
第2節。『試論』の2章(持続する自我の記述)と3章(自由)の間には、連絡路が二つ(ヒューム的/ライプニッツ的)あるよ、
という話。
■「ヒューム的」なほうの最後の段落。こちらはいわば「おなじみ」の話。p.32-33
- 与えられた前件に対して、ただ一つの可能な行為だけが対応することを、決定論者の主張は言わんとしている。それに対して、
- 自由意志(libre arbitre)の支持者は、同一の系列が、別々の等しく可能な複数の行為にも至ることができたのだと主張する(DI131/115)
──こうした議論のトポスそのものが不適切であることをこそ、彼は示そうとしている。
■重要なのはこっち。「ライプニッツ的」なほう。
「カント論なげーなー。何の本だいったい...」と思ってたら途中で著者のひと曰く
ベルクソン読解に何の関わりがあるのか、と問われようか。[p.56]
と。
■カント論のおわりのところ。p.68-69
[‥] 現象が絶えず継起し流れ去っていくからこそ、統覚が必要であったのではなかったか。そこからしてカントにおける「経験的自我」、サルトルにおける「超越的自我」、つまりは対象としての主観性、という雑種的概念が生まれてくる。[‥]そうした水準の手前で働いているだろう主観的な自我については、カントはその認識を不可能として放置し、サルトルはいったん「内在的統一」の語でそれを指示しつつもそれを論じる手段を持たない。「自我の二重化・分裂」をめぐる典型的な構図である。[‥]「時間」は流れ去りであり、隔たりの運動であるがために、統覚はそれを取りまとめ、通覧し、総合せざるを得ないのではなかったのか。また、それゆえに、私も絶えず自らに距離を置きながら、同時にその隔たりを用いつつ反省を行い、しかしそうすることでその反省的まなざしの向こうに対象としての自己を見てしまうのではなかったのか。そしてこうした運動、すなわち自己に対する差異化とその回復といういかにも弁証法的な営みこそ、主観性の「生」であるとむしろ言うべきではないのか。少なく見積もっても、カントからサルトルまでの多くの哲学者(‥)が、あらためてそう問い返してくるはずである。
[‥] なぜ「実在的時間」としての「持続」の導入が、ベルクソンにおいては、「自我の二重化・分裂」の凡庸なアポリアへと再び私たちを導いていくことがないのか。[‥] 考えるべきは、この点である。
凡庸てw。
さて、ここから話はゼノンのパラドクスへ。