涜書:西原『聞きまくり社会学』/上野『スピノザ』

夕食前半。

聞きまくり社会学―「現象学的社会学」って何? (ist books)

聞きまくり社会学―「現象学的社会学」って何? (ist books)


夕食後半。

これすばらしいです。すごいです。おもしろいです。
この紙幅でこんな──啓蒙的かつ本質的な──仕事ができちゃうなんて尊敬と驚愕に値します。
あと、腹抱えて笑える箇所多数。お得です。星5つ

スピノザが「証明する」と言い出したら、本当に証明するのである。[p.34]

考える自由は敬虔も平和も損ねない。いやむしろ、それを抑圧すると敬虔と平和まで破壊してしまう。このことを、ほかならぬ聖書そのものを根拠に証明する。



内容は 奇書『神学・政治論』isbn:4003361512 / isbn:4003361520 の解説。スピノザの著作構成にあわせて、主要部は 「神学ブロック」(2章)と「政治学ブロック」(3章)の 二部構成になってます。

目次

  • はじめに
  • 第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか
    • オランダ共和国/デカルト主義者たちの不安/不敬虔という問題
  • 第2章 敬虔の文法
    • 解釈の狂気/真理条件から主張可能性条件へ/預言者の語り得たこと/普遍的信仰の教義/神学と哲学の分離──無関係の関係
  • 第3章 文法とその外部
    • 神学から政治論へ/最高権力の「最高」を構成する/敬虔の政治論的な文法/文法の外部/自由の擁護
  • 第4章 『神学・政治論』の孤独
  • スピノザ小伝


「神学ブロック」のハイライト。第2章「敬虔の文法」(p.52-)

普遍的信仰の教義

 … 信仰の基礎はもっぱら神への服従にある。神は正義と愛をなせと命じる。これは有無をいわせぬ絶対命令であって、「事柄の真理」がどうなっていようとその正しさには関係がない。敬虔な者とは、要するにこの命令に心から服する人のことである。… それが聖書の論理だ。ならば、そのように服従する人なら必ず知っていなければならない事柄、… それを知らないと服従そのものがなくなってしまうような事柄を、服従の必要条件として論理的に書き出すことができる(下巻136-137頁)。それがいまの信仰の教義である。こんなふうに。

  • [略]

 … 「普遍的信仰の教義」と言うけれど、これは神という存在についての真なる命題ではない。…論理的、あるいは文法的に言って、神をこういうふうに知っていなければ神への服従を説くことは事実上できなかった。だから一致していたのだ。… 論理からして、そうしなければ「ならなかった」のである(下巻112ページ)
 スピノザは大胆なことを平気で言うと前に述べたが、それはこのことである。スピノザは、真理を語っていなければ聖書ではないという同時代人の大前提を解除してしまっているのだ。「普遍的信仰の教義」は、言ってみればそれ自身の無知によって審議の詮索から守られている。それは──スピノザの言葉ではないけれど──ある種の「文法」に属する事柄、聖書の神について何か思ったり言ったりするときに万人が知ってか知らずか一致して従っている文法規則、いわば「敬虔の文法」のようなものだ。だから真偽とかかわりなく「普遍的」であって、誠実なひとなら異論の立てようがないのである。[p.53-56]

略したところに書いてあるのが──本買って読め──「敬虔の文法」。 で、その前後に書いてあるのが 「文法」という言葉のいみ(と、それを把握しようとする仕事のいみ)ですよ♪


ところで この議論を、上掲西原本のこのあたり↓の発言と重ね合わせて読んでみると なんとも感慨深いものがありますよ:

エスノメソドロジーの諸潮流

──エスノメソドロジーは、関心や手法の違いによって、いくつかの学派に分かれてるようですが。
ええ。大きくまとめておきましょう。

  • 1) 最初は、エスノメソドロジーは、日常生活を営む普通の人びとの主観的な思いや行動を捉えようとしていたと理解されていた。
  • 2) けれども、サックスという人との出会いもあって、エスノメソドロジーは70年前後からは本格的に会話的相互行為の分析に乗り出していきます。この会話分析こそエスノメソドロジーの本筋だっていう流れができていき、サックスが読まれました。そしてさらに、会話分析の流れも二つに分かれていく。
  • 3-1) そのひとつが、会話のなかに権力関係を読み取ろうという展開です。末端の相互行為、あるいは身体にまで浸潤する権力作用、それを会話分析で読み解こうとします。とくに、差別や権力の問題、あるいは障害者の問題を論ずるときに、エスノメソドロジー的視点を積極的に活用していこうという流れを生み出した。これはエスノメソドロジーの日本的展開でもあり、日本が大きく進展させたバージョンだと思います。
  • 3-2) それからもうひとつ、ウィトゲンシュタイン派のエスノメソドロジーがあります。会話分析とウィトゲンシュタインの理論とを結びつけ、その意味ではポストモダンの理論とも結びついています。出発点は言語ゲーム。もうそれ以上たどることができない出発点として生活形式を考え、そこでなされる相互行為。特にそこでの会話的相互行為に焦点化して、会話分析を中心に研究していくエスノメソドロジーです。…[p.143-144]

現象学の泥臭さ

──ヴィトゲンシュタインの名が出てきましたが、現象学あるいは現象学的社会学ヴィトゲンシュタインは無関係なのですか・
 現象学ウィトゲンシュタイン、あるいは現象学分析哲学との一致点を掘り起こそうとする現象学の流れもあります。それはそれで、ひとつの展開としてはとても興味深いけれども、そのことで、現象学がもともと持っていたドロドロした部分、泥臭さみたいなものや、何よりもさまざまな視点からの発生論的問いが扱えるのだろうか、とぼくは思うんです。/ また現象学には、… マックス・シェーラーという後継者もいるんですね。彼は、感情、共感、同情といった問題を論じている。そういう部分もうまく論じることはできないのではないか。身体の問題などは、どう扱うんだろう。そんなふうに考えていくと、分析哲学に引き付けて現象学を見ていくのは問題なのではないか、とすら思います。[p.144]

「敬虔」にすら(?)文法があるとゆーのに「感情」「共感」「身体」にはないですかそうですかそうですか。


それはさておき第2章の最後あたり:

神学と哲学の分離──無関係の関係

哲学の目的はもっぱら真理のみであり、これに反して信仰の目的は、これまで十分示したように、服従と敬虔以外の何ものでもない。次に哲学は共通概念を基礎としもっぱら自然からのみ導きだされねばならないが、これと反対に信仰は、物語と言語を基礎としもっぱら聖者と啓示とからのみ導きだされねばならない。

したがってと──スピノザは続ける──神学と哲学との間には「何らの相互関係も何らの親近関係もない」、無関係だというのである。[p.57]

第4章「『神学・政治論』の孤独」の最後あたり:

有徳の無神論者というパラドックス

 こうしてスピノザは宗教を、そして無知なる信仰を、そのあずかり知らぬ理由でもって肯定した。
 そうかもしれないが、でもやっぱり信じてないんでしょう?
 そう、信じてないのである。少なくとも信者が信じているようには信じていない。けれども受け入れている。
 こう言えばよいだろうか。スピノザは宗教を、その真理性という点ではまったく信じていないが、それがそんなふうに言う正しさ、そしてその正しさの解消不可能性という点では全面的に受け入れる。スピノザは真理として肯定するという意味のラテン語affirmareと区別して、両腕を開いて抱き込む、受け入れる、という意味のamplectiという語をニュアンス深く使っているように思う。たとえ真理でなくても受け入れる、のである。こういう受け入れ方は欺瞞的だろうか?[p.96-97]
 無神論の策略? おそらくそうではない。スピノザは無知なる信仰をその信仰のために肯定する。すべてに及ぶ「神あるいは自然」の力が、ひとりの人間が幸福になる力として今そこに及んでいることを彼は肯定し、全面的に受け入れるのである。[p.100]

奥さん!機能分化ですよ!

ルーマンが『社会の理論』シリーズの締めくくりとなる著作『社会の社会』isbn:3518289608 を、なぜスピノザの引用でもって始めたかが よくわかりますね♪
「よく」はわかりませんか。それもそうですね。



これ↓と いっしょに読まないともったいない。
スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

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あわせてこれも買いたい:
精神の眼は論証そのもの―デカルト、ホッブズ、スピノザ

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