ブログに書くのは簡単なのに♪

  • ルーマンは「システムたちがある」ということからはじめよう とか、「俺が作動というとき、それは経験的なものを指して言ってるのだ」とか言っていた。でも「俺は経験的な研究じゃ 扱われないこと・扱えないこと・見逃されてしまうこと を 取り扱おうとしてるのだ」とかとも言っていた。 ──なんだそれ。どういうこと?
    • 「社会システムは経験的なものだ」というなら、「システムの研究」は「経験的研究」なんでしょ? それはそうだ。トリヴィアルに。
    • じゃぁそれは「いわゆる経験科学」一般の格律に従うわけ? いや、そうじゃない。
  • 社会システムというのは、「実践的に産出される社会秩序の局所的な統一性」のこと。でも、いわゆる「実証研究」──という意味でのいわゆる「経験的研究」──の格律には、「実践的に-産出される」「局所的な-統一性」も含まれていない
      • いいかえると、ルーマンのいう「システムの作動の記述」──実践に即した記述──という課題は含まれていない。
      • その基準はもともとは自然科学用につくられた基準を流用したものなのだから、ある意味ではあたりまえのこと。
    • そんなわけで、「システムの研究」──社会秩序の統一性に指向した研究──は、「いわゆる実証的」な研究基準では、うまく評価できない。(その評価基準に含まれていないものの把握を目指しているのだから。)
    • もっといいふうに言えば、「統一性の把握(社会システムの研究)」を特別に云々する意義は、「いわゆる実証研究」には納まらないいみでの「経験的研究」の領域を示せるところにある。
      • ちなみに、実証主義的研究が指向している(or 前提している)対象の同一性が居る場所には、
        「同一のものの様々な側面」というのが実証主義のレトリックだけどこれは〈実体-属性〉図式にもとづいているよね
        システムの研究においては、「システムたち」のコンプレックスが登場することになる。‥‥「システムの研究」がうまくいけば。だけど。
  • というわけで「統一性の記述」は難しい。やるのも難しいしいけど、それだけじゃなくて 評価も難しい。
  • 実証主義には「よい研究/だめな研究」をはかる いちおうの基準がある。でも、「実証主義的じゃない経験的研究」については、それに相当するはっきりしたものは、いまのところない。
    • これもある意味ではあたりまえで、「実践に即して(=内在的に)統一性を捉える」=「作動的閉鎖の把握」というからには、そのときに──実証主義のように──外在的な基準に頼るわけにはいかない。でも「いい研究/いけてない研究」を判断する基準がなくていいわけじゃない。公共的に評価できないものを学問とはいわんでしょ。
    • これは相当むつかしいタスクなので、みんなでちょっとずつアイディアをだして前にすすむしかないよ。
      • というか「むつかしい」どころか、「不可能」であるか「無意味」であると思われている可能性も高い。(→ルーマンはしばしば懐疑論的に解釈されている。)
    • 罠がいっぱいあるので気をつけないといけない。頼りにするものが少ないので類型論とかについ手を出したくなるけどそれも罠。なのでよけないといけない(「類型」でシステムを語るなら、そもそも「システム」などという概念自体が必要ない)。
  • というわけで、「統一性」に注目したところがルーマンの偉いところ。だけど、それは「独りルーマンのみが」提出できたアイディアじゃない。そういうひとは──数は少ないけど──ほかにもいるので、そういうのもあわせて一緒に比較しながら考えた方がいいよ。課題がむつかしいんだから、使えるネタはなんでも使わないと話が進まないよ。
どの社会学者が一番偉いか(独自か)を競っても仕方ない。(ルーマンは偉いところもあったと思うけど、でもどっちみち そんなに突出しては偉くない。)
  • ルーマン自身は結局「システム類型」にうったえて仕事を進めてしまったので、トータルにみればその仕事うまくいってない。
    • 「作動の記述」のためのまともな研究プログラムの提示には、「システム類型」論のせいで失敗したし、そもそも積極的に研究プログラムを提示しようとしていたかどうかあやしい。(ルーマンの仕事においては、システム境界、システム構造の特定の作業が、暗黙の仕方で行なわれてしまっている。だからそこに恣意性が入り込むことになる。特定作業が明示的じゃないから、後から来た人が、仕事を引き継ぐこともむずかしくなっている。)
      • だから部分部分を丁寧にフォローして、ルーマンが暗黙的にやっていたことを明示化したりして、いいところ(統一性の記述に資するもの)を救ってあげないといけない。
      • 「システム類型」論を外してしまうと、「ルーマン理論」と呼ばれているものの「見かけ上の体系性」や「見かけ上の研究プログラムっぽいもの」は 半ば以上吹き飛んでしまう。でもそれは役にたたないので諦めて違うことを考えた方がいい。
  • というわけなので、手探りで、それでもちゃんと前に進むには、いわゆる学説研究もいわゆる理論的研究もいわゆる経験的研究もどれも必要で、でもそれは独りでできるようなことではないわけだけど、いまのルーマニ屋は、提出された知見がふつうに蓄積されて、他の人がそれをもとにもっとよい仕事ができる、というふうにはなっていないのでよくない。(まぁルーマニ屋だけじゃないけどな。)
    • 「学説研究は一人一旗」みたいなのキモい。そんなの学問じゃない。


とかいうのを論文フォーマットに乗せるのは無理なので、なんか他のことを考えないといけません。