ヴァルデンフェルス『講義・身体の現象学』

タレコミがあったので確認読み。第3章。

講義・身体の現象学―身体という自己

講義・身体の現象学―身体という自己

  • I 身体の謎
  • II 感覚することと知覚すること
  • III 空間時間的方位づけと身体運動
    • 1 身体図式と身体による場所の占有
      • 身体図式に関する補足的注解 (第5講義 1996年11月19日)
    • 2 身体的運動の時間性
    • 3 掴むことと指し示すこと
    • 4 身体的運動の志向性 (第6講義 1996年11月26日)
  • IV 自発性と習慣
  • V 身体的表現
  • VI 転換箇所としての身体
  • VII 自分の身体と他者の身体
  • VIII 身体的応答系

III 空間時間的方位づけと身体運動

3 掴むことと指し示すこと

[‥]

 メルロ=ポンティは G.カンギレムと同様に、その早い時期に、そして、再三再四ゴルトシュタインに言及しました。メルロ=ポンティは、正常な行動の記述が病理学的障害をも考察に入れなければならないということから出発します。なぜなら、病理学的な逸脱と対照することによって初めて、正常性は現実の能作として現れるからです。それとともに、私たちが正常性ということで理解しているものも変化して、正常性はもはや、いずれにしても当たり前に常にそこにあるようなものではなくなり、そこでは障害が医師または警察によって取り除かれるようなものではないということです。メルロ=ポンティは正常性をむしろバランスを取ること、つまり、安定を巡る耐えざる努力と捉え、この安定は、太いとやその他多くの人々が想定するように、常に何らかの病理学的な契機が混入しているのです。問題なのは、むしろ力点や重点であって、病人と健康な人との厳密な区別だてではありません。なぜなら、両者は工作しているからです。障害を手がかりとしてこそ、正常なあり方では何が生じるのかということが見えるようになるのです。社会学、特に民族学方法論〔エスノメソドロジー〕では、方法上綿密に考えぬかれた、社会に固有な正常性についての研究のための疎外化の方策があります。ある人がその事情に通じていない、自分にとってまったくなじみのない状況におかれ、例えば自分自身では決して立てたことのないような問いに直面させられ、それによって、自分の正常な世界像や自己像が突然揺るがせられるのです。シュナイダーの症例では、正常性の疎外化は、正常な知覚を疑問視させるような負傷から結果したのです。[p.143]

(例によってここでも)違背実験のことが話題になっているのであろうが。
文献をあげないままに参照されている点、そしてまた 2004年に出た訳書で「民族学方法論」なる訳語が採用されているという双方の点でもって、いいしれぬ敗北感に襲われる件りであった。



三章の基本テーゼ:

  • 私たちが注意を払うものは、私たちが行うことに働き返しているものである。[p.113]

1 身体図式と身体による場所の占有

空間の話。

身体図式に関する補足的注解 (第5講義 1996年11月19日)

2 身体的運動の時間性

時間の話。

3 掴むことと指し示すこと

  • ゴルトシュタインの「シュナイダー症例」

知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)』 183頁〜

a 経験論的解釈
指し示すこと視覚領野〔visuelle Sphäre〕
掴むこと触覚領野〔taktuelle Sphäre〕
因果的説明内容の抜け落ち
b 主知主義的解釈
指し示すこと意識した作用=抽象的あるいはカテゴリー的な態度
掴むこと物(的身)体の機構=具体的な態度
反省的分析認識形式の喪失
c メルロ=ポンティによるゴルトシュタイン批判
身体的運動┌→脱状況的知
└→盲目的運動
実存的分析行動の統合破綻

4 身体的運動の志向性 (第6講義 1996年11月26日)