涜書:森「カッシーラーの文化の哲学における「科学の言語」をめぐって」

本日の通勤読書。

  1. 森 淑仁(1994)「E.カッシーラーの文化の哲学における「科学の言語」をめぐって(I)」、国際文化研究科論集 1, 37-56, 1994-03-30
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110004811972
  2. 森 淑仁(1994)「E.カッシーラーの文化の哲学における「科学の言語」をめぐって(II)」、国際文化研究科論集 2, 35-48, 1994-12-20
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110004811987
  3. 菅野 盾樹(2003)「なぜ自然は美的でありうるか あるいは、光景の感情」、大阪大学大学院人間科学研究科紀要 29, 228-249, 2003-03
    http://ci.nii.ac.jp/naid/120002843176
森論文

なにが主題なのかわからなかったでござる。

菅野論文
  1. 自然美という問題
  2. 表情とスタイル
  3. 顔──スタイルと表情をつなぐもの
  4. 感情移入 対 共感
  5. 模倣説の教訓──人称以前的ステージ
  6. 記号過程の表情原理
  7. 知覚のレトリック
  8. 指差しと「ああ」という発生と
  9. 結論: 世界-人間の双対体は感情的=表情的である
  • 問い:ひとはなぜ景観によって感情的効果をもたらされるのか。[p.229]
  • 答え:
    • 1) 人間は記号機能を営む生体(homo significans)であり、世界は記号環境(semiotic environment)である。
    • 2) 人間と世界の切り結びの様態ないし実存の様態は〈表情=感情の融即=浸透態〉であり、世界は表情をおび また 感情的である。
      • →人間は知覚物に遭遇してなにほどか感情を喚起され身体的共鳴を奏でる。景観がときとして美的であるのは、こうした人間の存在構造による。[p.245-246]

どどーん!

  • 論題:
    • 情動的存在様態(affective mode of existence)
    • 〈表情/感情〉


「表情」にいかなる言語表現を与えられるか問題(なのか?)。

(2) 〈表情〉を伝統的形而上学のカテゴリーである属性(attribute)や特性(property)とみなすことには限界がある。本来、こうしたカテゴリーは文法カテゴリー(主語-述語という区分における述語)に由来する。例えば、この蜜柑(指さすことのできるひとつの有体物)を主語にしてさまざまな述語を与えることができる。この蜜柑は甘い、この蜜柑は大きい、などと。哲学者は主語に対応する実在の側のものを「実体」としてカテゴリー化し、述語に対応する実在のものを「属性」とか「特性」とか呼ぶ。クワイン(von Quine)をはじめとする論理学者は、それらは存在者(entities)であるから一つと数えることができるはずだというが、問題は、それらにあてがわれた同一性が固く凍りつき、生気がまるで失せている点であろう。
 カッシーラーは、前述のように、表情が横溢した世界においては すべての存在形態が独特の流動性を呈しているという。そこでは同一性の論理法則が必ずしも妥当しないし、種と類の概念によって引かれた境界線が生命の動きに従ってたえず消し去られていくというのである31

「さて次の段から反論がはじまるのかな?」と思って読んでいたら・・・・
続く文章が「固く凍りつき、生気がまるで失せている」だったときの悲しみ。

こういうのは なにから検討したらいいのかすらわからんな。