AMSEA講義の準備。これ古書価格一万するね。
|
|
|
引用
序「コンセプチュアル・アートとはなにか」
- 7 コンセプチュアル・アートの四形態:
- 1. レディメイド
- 2. 介入(インターヴェンション):なんらかの画像、文、ものが、予想外の脈絡や環境のなかに配置され、その結果、この脈絡や環境に関心が向けられる場合
- 3. 記録:作品が証拠品をもってしか提示されない場合
- 4. 言葉:提言、調査などが言葉として提出される場合
- 10 「コンセプチュアル・アートはリフレクシヴだ。〈私は、私がいかに思考しているかについて思考している〉という語句と同様に、オブジェクトが さかのぼってサブジェクトに言及するのだ。これは継続的な自己批評の状態をあらわしている。」
ぜんぜん〈同様〉ではないよねこれ。どちらか↓を言っていただきませんと:
しかも、もしaなら既出じゃん!
- 12 コスース先生 「コンセプチュアル・アートのもっとも〈純粋〉な定義は、これまでの経緯で現在〈アート〉がもつに至った意味、その概念の基盤の探求ということではないだろうか。」
こちらは明確に〈リフレクティヴ〉だけど、著者はそうは指摘していないね。
- 14 後年のリパード先生(1995) 「私にとってコンセプチュアル・アートとは、観念が最重要であり、物質面は二義的、…」
- 14 後年のコスース先生(1996) 「コンセプチュアル・アートには、…、アーティストは形状、色、素材ではなく、意味を扱う作業をするのだという認識があった」
1「初期モダニズムにおける反芸術の姿勢」
- 19 「芸術は概念だ。象や椅子と違って、厳密に定義できるような事物の物理的な類型としては存在していない。」
それをいうなら選挙も概念であろう。
- 69 ピエール・レスタニーは、「「いくつかの高貴なジャンル、とりわけ絵画の内在的永遠性」を信奉する考え方に反発した彼ら[ヌーヴォー・レアリスト]は、自分たちの周囲に作られつつある世界を検証する動きを開始し、それを社会学と呼んだ。」
つらい。
- 82 「クラインもマンゾーニも若くして死んだ。クラインは62年、アンフェタミン常用による心臓の悪化と、ブルーの塗料の吹き付けに使用した溶剤のせいで、マンゾーニに63年、やはり以前使った化学物質による健康の悪化で。」
3「ニセで、過激で、冷厳な」
- 87 グリーンバーグ先生1961
「自己批評の課題が変化し、自分が実践する以外のアートの媒体でも実現できる、あるいはそれから借りてこられるとおぼしき、ありとあらゆる効果を、自分が作る作品の効果に組み入れてはならない、ということになった。そうすればどの作品も「純粋」になり、その「純粋性」のなかにこそ作品の質の水準や独自性の保証があると。「純粋性」こそが自己を規定するものだということになり、芸術における自己批評作業は、厳しい自己確認作業と同義語になった。」
4「ほぼ脱物質化されたオブジェ」
- コスース1969 「コンセプチュアル・アートのもっとも純粋な定義は〈アート概念の基盤を探ること〉」
- 136 「美術家と作家の両方に影響力の大きかったグリーバーグは、これみよがしの主題を掲げて現実世界の要素を取り入れたアートを拒絶した。創造過程を汚染するものだとして。そうしたものを彼はキッチュあるいはノベルティ・アートと決めつけた。1960年代後期、グリーンバーグらのフォルマリストの作家たちとつながる抽象画家アル・ヘルドは「すべてのコンセプチュアル・アートは、ものを指しているだけだ」とのべた。…バルデサーリはヘルドの言葉を逆手にとり、指さしをもとにした一連の作品を作った。」
もともとのグリーンバーグの議論が間違っており、それに乗っかった画家の考えも間違っており、それに反発した画家もまたそれらの誤りに乗っかりながら作品をつくるという悪夢のような生産性の高さ。
グリーンバーグの議論には「自己以外の契機を含む純粋ではない反省はちゃんとしてない反省だ」という主張が含まれていて、これは──自己に対する反省には自己ならざるものが必要不可欠なのだから──強い意味で間違っている。
- 138 『アート=ラングエージ』第1号序文 「コンセプチュアル・アートがやっているとおぼしきことは、視覚芸術の形態を厳格に支配しているらしい条件──視覚芸術はあくまで視覚的だという条件──に疑問を投げかけることなのだ。」
疑問投げかけてるだけだから退屈なんだよなぁ。
- 139 「ここでもアトキンソンの関心がモノとしての美術品よりも、美術としての作業に向けられていることは注目すべきだ。重要なのはモノではなく活動であり、それこそがネオ=ダダが重視していたことから脱却して別の道をとる鍵となる、という考え方だ。」
〈モノ/活動〉きたー
こういう二分法使わないと仕事できないの?
- 142 「自分のインスタレーションやハプニングについて書いている中でアラン・カプロウは、参加者へと変身して行く観客こそがじつは作品だったのであり、モノや様々な指示内容はカンヴァスのようなものだったと述べている。」
ヌルい。でもこのくらいヌルいこと言ってたほうが生産性は高いんだだろうね。
5「頭脳警察は誰だ」
6「権威の危機」
7「おしまいか」
8「彼女たちはどこに?」
9「他者への眼差し」
10「お前の名前は?」
11「スタイルを取り締まるのは誰か」
- 387 「とりわけバルト、フーコー、そしてフロイトの再解読の影響下で生まれた、視覚とモノの文化に関するもっと高度な認識がある。それが近年になって、かつての粗探し的な批判よりもずっと寛容な、オブジェや表象の制作に対する姿勢をもたらした。したがって今日では、概念化と芸術作品作りを峻別する、これまでのような堅苦しい二分法は横行していない。」
つらい。
- 406 コスース 「アートを高価な装飾品以上のものにしようと思うなら、今までになかった哲学的、政治的意味を表現することこそアートだ、という見地に立たなければならない。」
なんで?
- 410 「こうした行為は、美術館が美術史を牛耳ってきた因習を破り、日常の問題や個人の記憶、また子供の要素を持ち込むという貢献をした。」
- 416 「今日のコンセプチュアル・アートのもっとも重要な側面は、事物や空間にあるのではなく、共同性、またコミュニケーションと人々の行動様式を重視する点にあるということになる。」
いつの間にそういう話になったんですか(困惑
作品
3「ニセで、過激で、冷厳な」
- Andy Warhol Empire (1964)
https://www.youtube.com/watch?v=O7VYWBoqrPI - Andy Warhol Blowjob (1964)
https://www.youtube.com/watch?time_continue=3&v=1MKfUxIij04 - ラ・モンテ・ヤング(1958)「弦楽三重奏」
https://www.youtube.com/watch?v=s2K7n49soV8 - ラ・モンテ・ヤング(1960)「コンポジション」https://harmonicsdb.wordpress.com/2014/08/10/la-monte-young-five-piano-pieces/
- 久保田成子オーラル・ヒストリー 2009年10月11日http://www.oralarthistory.org/archives/kubota_shigeko/interview_01.php