何をどうすると都市社会学になるんですか問題

夜のお仕事準備。昨年9月の続き。
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都市社会学、もしかしてパーフェクトな研究領域なのではないか。

『祝祭都市―象徴人類学的アプローチ』

都市社会学disが載っていると聴いて読んでみたところ、くだらない難癖すぎた。

巻頭「想像力の中の地下都市」冒頭:

  • A──都市についての関心はいつ頃から持ち始めていましたか。
  • B──都市そのものではありませんが、1963年頃、国際基督教大学で助手をやっていたとき、都市社会学及びそれに熱中する社会学の学生たちを見て、都市社会学というのはつまらない学問分野だなと思ったことがあります。
  • A──どうしてそんな印象を抱いたのでしょうか。
  • B──この分野が、単純な経験主義の視点にもとづく当時のアメリカの計量的方法の影響を最も強く受けていたせいでしょうかね。
  • A──それ自身歓迎すべき方法だったのではないですか。
  • B──ところが、この方法は、基本的に、計量可能な方法を中心にしか社会的現実を捉えることをしない。計量可能な方法で捉えうる現実とは、その実効的な側面に限られてきます。それ故、都市社会学はどちらかというと、都市計画とか都市の福祉といった、快適性を前提とする分野に視点を限るようになったように思われます。
  • A──その視点は、あなたの社会学についての一般的な見解にほぼ一致しますね。そういう視点で視ると都市のどういった側面が抜け落ちるのでしょうか。
  • B──先ずはっきり言って、都市の可視的な部分はよく見えるけど、不可視の部分はますますよく見えなくなるのではないでしょうか。
  • A──あなたの現実の多層性についての考え方が、そうした見方に無関係ではないでしょうね。
  • B──そうですね、都市社会学的な視点の最大の欠陥は、現実を生活の実効的な側面に限定することにあったのでしょうね。ところが都市は、その中に生きる人間の意識のあり方によってさまざまの相貌を示すものです。だから、計量的方法によって捉えられうるのは、そのごく一部にすぎないという自覚が、そういった方法に携わっていた人には欠けていたようです。
  • A──たしかに都市については、いろいろな分野から捉えられはじめていた。特に映画が都市の不可視の部分に投げかけた光は大きかったと思いますが、いかがですか。
  • B──当然のことながら、都市の動的な側面、そして移行することによって見えてくる都市を示したという点で、映画の果たした役割は大きかったと言えるでしょう。
  • A──映画の中でも20年代表現主義は都市の影の部分を描くのに長じていましたね。

「見える/見えない」と「光が当たる/当たらない」を混用するのやめろ。



巻末「ポスト・スクリプトゥム」[304]

  • A──祝祭都市探索の長旅もやっと終わりましたが、都市については長い間こだわっていたようですね。
  • B──そうですね。誰でも都市について一言あるとは思いますが、社会科学で都市を捉える視点・モデル・概念が、どうもすっかり衰弱してしまったという印象を多くの人が抱いています。何とかしなければと、長い間考えていました。

昭和だから仕方ないか。

有末 賢(1993)「「都市論と都市社会学」に参加して」

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「盛り場」という場は、都市空間の中に「位置づけられ」、集積されることによって「盛り場」としての「意味」が付与されるのであるし、逆に「盛り場」の意味としての娯楽、消費、祝祭性なども、「位置づけられ」ることによってはじめて社会の場に登場してきたのである。すなわち、時間・空間の「媒介性」こそが文化研究の中で問われているのではないだろうか。文化は生産・消費の様式や人々の「意味づけ」にかかわっている。日本における大衆消費社会は、都市空間を「位置づけ-意味づける」うえで重要な「媒介性」を有している。このように考えてくると、都市社会学者が都市化-郊外化、インナーシティ問題、ジェントリフィケーション、世界都市化などにおいて考えてきたものも、すべて〈社会〉と〈空間〉の「媒介性」を問題としてきたとも言えるのである。

ぜんぜん意味がわからなくてすごい。

町村(2013)「都市社会学という「問い」の可能性」

[11] 日本の都市社会学は、学会設立の当初から、皮肉にもその内部に「アイデンティティ問題」を抱えていた。なぜなら、1982年に日本都市社会学会が設立された頃、学問の制度化を大きく後押しした「都市化」という大規模な変動は、すでに終わりを告げつつあったからである。