苦手分野克服の旅:レヴィナス

主体

バタイユ

村上暁子(2016)「レヴィナスにおける主体性の起源の問題」

  • I 創造性と性の論点
  • II 存在論批判の背景
  • III 被造物の時間性
  • おわりに

森 正樹(2018)「瞬間と行為」

第一節 瞬間と行為
  • [83] 「本稿は、
    ・本来的な現存在の行為とは何か、
    ・現前化における行為はいかにして瞬間と関わっているのか
    という課題に取り組み、次を示す。
    ・行為とは配慮・顧慮のような個別的な振る舞いとみなされるものではなく、それらを可能にするような理解の遂行であること。
    ・行為の時間性は確かに現前化であるが、しかしそれは瞬間の脱自によって働きかけられている限り、いわば本来的な現前化であること、
    これらを示す。」
第二節 本来的な現存在の現在に関するに局面の再構成

平岡 紘(2019)「〈自己のもとでの現前〉」

はじめに
  • [54] レヴィナスの哲学は 主観性非人称的存在 の関係をめぐる問いによって導かれている。
  • [55] 「以上に見られる、『全体性と無限』に結実するレヴィナスの思索が描く基本的な道筋は、まず
    ①自己性と同義であるようなもの
    として〈私〉をとらえた上で、次いで
    ②〈私〉を意味するのではないような自己
    の観念を提示するというものであると言えよう。」
1. 〈私〉と自己
  • [56] 『全体性と無限』におけるレヴィナスの発言:
    「〈私〉とは、つねに同じものであり続ける存在のことではない。そうではなく〈私〉は、
    ①その存在することが自らを同一化することに存し、
    ②自分に起こるあらゆることを通じて自らの同一性を再発見することに存する
    存在である。〈私〉とはすぐれた意味での同一性であり、同一化の起源的な業である。」
  • [57] 「〈私〉の自己は、〈私〉が「自らを同一化する s’identifier」運動における「自らをse」に存する。」
  • [57] サルトルの場合:
    • 「自己」は、フランス語の再帰動詞の「se」が示すように、「主語=主観が自分自身と結ぶ関係」を指し示している
    • 主観は自らであることはできない。自らとの合致は「自己」を消滅させてしまうからである。
      • それゆえ、つねに自らと合致している即自存在(l’être-en-soi)には、自己がない。
    • しかし他方で、主観は自らで在らぬこともできない。このような「自分自身との一致では在らぬ」という自己関係、これを「自己」は表示しているのである。
    • サルトルはこのような「自らに対する存在の剥離」である自己関係「自己への現前」 と呼ぶ。
    • サルトルにあって、それは隔たりにおける現前である。
      「意識である限りでの意識の存在は、自らへの現前として自らから隔たって存在することであり、存在が自らの存在のうちに抱くこのゼロ距離、それは〈無〉である」
      • サルトルにとって〈自己への現前〉とは、対自が即自存在の中に無化によって欠如と否定をもちこみ、そのようにして自らから隔たって自らに現前することなのである。
  • [57] レヴィナスの場合:
    • 〈私〉の自己同一化は自らと一致することに存する。関係でありながらも一致であるような自己関係、それが〈私〉である。
    • レヴィナスは〈自己への現前〉を「表象」と理解し、その自己一致的性格を強調する。
      • 『全体性と無限』でも〈自己への現前〉は表象における 「「私は私である」という単調な同語反復」として理解されている。それは、「時間との結びつきを――接点における結びつきさえも――欠いている純然たる現在」においてただひたすらに「私は私である」と言う〈私〉に他ならない。
      • かかる 〈自己への現前〉 が条件づけられたものであることを示し、〈私〉の起源的な自己性を〈私〉と世界との関係としての 〈自己のもとでの現前〉 として思考すること、このことに『全体性と無限』における自己性の思索の眼目の一つがある

サルトルレヴィナスは、〈自己への現前〉 という同じ表現を異なる事態を指すのに使っている、と。

2.享受と身体――〈自己のもとでの現前〉の基本的結構

レヴィナスが、「滞在」とか「住む」といった言葉に負荷をかけて使っていることがわかります。
連動して使われているのは: 住む - 労働する・所有する・表彰する - 享受する

  • [58] 「『全体性と無限』の構図にあって住まうこと、それによって可能となる労働、所有、表象はいずれも、享受を確かなものとするために享受を繰り延べる ことに存し、享受の秩序に属している。この意味で、〈自己のもとでの現前〉の構造そのものも享受によって描かれていると言ってよい。まずは享受がどのような事柄か、確認しよう。」

「この意味で」の意味がわからない。
「遅れさせる」というのはジョージ・ハーバード・ミードのキーワードでもあるけど、両者が扱おうとしている論題の近さを示唆しているような気がするね。

  • [58] 享受(~~によって生きえること vivre de...)について
    • ①様々な物象を「糧」として、それによって養われていること。他なるものに対する依存。
    • ②糧に養われることそのものに関わり、快を感じ、それを楽しみ、満足すること。依存による自存。
      享受は物象に価値を付与する。
  • [59] 享受の自己関係:糧に関わりつつこの関係に関わる。  ──これが 〈私〉の自己同一化 の起源的な姿。
    • レヴィナス曰く、「享受を起点とした自らの出現surgissement de soi」は「存在論にではなく価値論に属する」
    • 「それは、価値によって周囲の物象を整序することが、〈私〉の「唯一性」(TI, 90)を形作るからである。享受によって周囲の物象を価値づけることは、自らがその中心に位置づけられることになる個人的な世界を描くことに等しい。誰のものでもない世界の中に自らの世界を描出すると同時に自らをその中心に位置づける運動、それが〈私〉の自己同一化なのである。
       こうした自己同一化の運動の仕組みを指示するのが 〈自己のもとでの現前〉 の概念に他ならない。」
  • [59] レヴィナスからの二つの引用:
    「自らとは他なるものの中で自らのもとに存在すること、自分自身とは他なるものによって生きながらも自分自身であること、~~によって生きること、こうしたことは身体的存在において具体化する。」(TI, 139)
    「身体、定位、自分を支えること――私自身との最初の関係の素描、私と私の一致の素描――は、観念論的な表象 とはまったく似ていない。私は私自身であり、私はここに、自らのもとに存在する。それが住まうこと、世界に内在することである。私の感受性はここにある。私の定位にあるのは局所化の感情ではなく、私の感受性の局所化である。」(TI, 111)
3. 現在、〈私〉、〈ここ〉──隔たりにおいて自らと一致すること

『実存から実存者へ』について。

  • [60] 「『実存から実存者へ』、のレヴィナスは、
    非人称的な存在としての「ある」 から 〈私〉という存在者 が出来する出来事としての 「実詞化」を分析することを通じて、
    〈自己への現前〉が その本質的構造からして必然的に、〈私〉が自らに釘付けにされることと して達成されることを論じる。
    実詞化 の分析は時間的に言えば、今〈私〉が存在し始める というまさにその「始まり」の「現在の瞬間(instant présent)」を分析することに他ならない。」

61で、『実存から実存者へ』から一段落を引いてパラフレーズしてるんだけど、これ、ちゃんとしたパラフレーズになってるかなぁ。

■鍵となるレヴィナスからの引用:

  • [a] 始まりの瞬間においてすでに、失われるべき何かがある。
  • [b] というのも何かが、たとえそれがこの瞬間そのものにすぎないとしても、すでに所有されているからである。
  • [c] 始まりは単に存在するのではない。
  • [d] それは自分自身への回帰において自らを所有する。
  • [e] 行為の運動は、自らの目標へと向かっていくのと同時に自らの出発点へと折れ曲がり、そのことによって、存在すると同時に、自分を所有するのである。(EE, 35-36)

論文著者によるパラフレーズ

 何かが始まるためには、まさに始まるそのとき(「始まりの瞬間」「そのもの」)は失われなければならない。つまり過ぎ去らねばならない。そうでなければ始まったことにならないからである。この意味で始まりのときはつねに遅れて、事後的にのみ確認される。したがって、行為をなし始めるそのときをとらえようとするならば、それはこの遅延を可能な限り小さくし、最小の時間的隔たりにおいてとらえる以外にない。このように「自分自身への回帰において自らを所有する」こと、「自らの出発点へと折れ曲がり」「自らを所有する」ことが、「始まりの瞬間」を構成するのである。
 したがって始まりの瞬間は、自らから出発して自らへと回帰する運動そのものに他ならない。というのも始まりとは定義上、新しい何かが始まることである以上、それは過去から断絶して「自らを起点として」(TA, 32)始まること以外にないからである。過去から断絶ししかし未来へ跳躍するのではなく自らへ回帰するこの運動、それが現在なのである(EE, 125)。

まず、「行為を始める」と、「行為を始めるそのときを とらえようとする」という異なるものをごっちゃにして論じているように見えるところがヘンな感じがするよ。
ただし、続く箇所には[61]、「現在は、つねにすでに過ぎ去っていく始まりのときを最小の時間的隔たりにおいてとらえる運動において構成される」という文があるので、この「始まりのときをとらえ(ようとする)る」というのが、認識の問題ではないことはわかる。
とすると、教えてほしいのは、「行為をなし始めるそのときをとらえ」る という文の主語 と 行為が始まるために「始めるそのときをとらえる」ことが必要な理由 ですね。


1940年代におこなわれたフッサール『内的時間意識の現象学講義』の読解について。

  • [62] 「L・テンゲイが正当に指摘しているように、レヴィナスフッサール時間論解釈は、意識の現在――純粋な内在における起源的な自己意識すなわち 〈自己への現前〉 ――がどのように構成されるかを分析することで「現在がもつ本当の意味で始まりであるという性格を確立する試み」…である。」


〈存在/意義〉とか〈存在/価値〉とかの二分法に訴えるのは新カント派の流儀で、そこからたとえばカッシーラーのように後者の側から前者にアプローチする論者も現れたわけだけど、レヴィナスはこの二分法自体の検討をせずにそのまま乗っかり、区別の一方を優位に置くタイプの議論をしようとしている──だけでなく、ハイデガーもそこに無理やり押し込めて付き合わせようとしている──ように見えるので困惑するね。

平岡 紘(2019)「〈自己への現前〉から〈自己のもとでの現前〉へ」

  • はじめに
  • 1. 〈私〉と自己
  • 2. 享受と身体──〈自己のもとでの現前〉の基本的結構
  • 3. 現在、〈私〉、〈ここ〉──隔たりにおいて自らと一致すること
  • 結び