飯田隆(1997)『ウィトゲンシュタイン:言語の限界』

カヴェル月間続き。390頁。



  • まえがき 001
  • 第1章 1929年 013
  • 第2章 『論理哲学論考』とはどんな書物か(1) 027
  • 第3章 『論理哲学論考』とはどんな書物か(2) 041
  • 第4章 ウィーンからケンブリッジへ 054
  • 第5章 否定の謎 069
  • 第6章 像としての命題 084
  • 第7章 語りぬ事柄 099
  • 第8章 再出発と破局 113
  • 第9章 復帰までの道のり 128
  • 第10章 ふたたびケンブリッジにて 142
  • 第11章 現象言語 156
  • 第12章 意味と検証 171
  • 第13章 哲学とは何か 186
  • 第14章 『哲学探究』まで(1) 200
  • 第15章 『哲学探究』まで(2) 215
  • 第16章 意味と理解 230
  • 第17章 私的言語 246
  • 第18章 数学の哲学 260
  • 第19章 心理学の哲学 276
  • 第20章 最期の日々 292
  • 第21章 科学主義に抗して 307
  • ウィトゲンシュタイン略年譜 321
  • 主要著作ダイジェスト 327
  • キーワード解説 341
  • 読書案内 359
  • あとがき 365
  • 参考文献一覧 371
  • 索引 380

312-313

自分を見失わずに、ウィトゲンシュタインの哲学と生きた対話を交わせるような間柄に立つこと、このことはとてもむずかしい。正直なところ、私自身、具体的にどうすることがそうすることでありうるのか、まだはっきりとはわかっていない。だが、ウィトゲンシュタインの哲学と適切な間柄に立つことをむずかしくしている原因のいくつかを特定することは、少なくとも可能である。そして、そうした原因を特定することは逆に、私を含めて、現在哲学を専門としている者の多くが抱いている哲学への見方のなかにある、顕著な偏りを浮き彫りにする結果となろう。
 さて、哲学についてウィトゲンシュタインが言うことのなかで、正しく理解することがもっとも困難なのは、たとえば、『哲学探究』第一部 109節で述べられているつぎのような考え方である。

 われわれは決して理論を提示してはならない。われわれの考察に仮説的なものはいっさいあってはならない。説明はいっさい止め、記述がそれに取って代わらねばならない。

 だが、ウィトゲンシュタインが、言語について、また、心について何を言っているのかを要約しようとするならば、その結果出て来るものはひとつの「理論」であると、どうしても思われるのではないだろうか。『哲学探究』のこの近くで、ウィトゲンシュタインはまた、哲学においてテーゼが出て来るとしても、それは、だれもがその正しさを直ちに認めるようなことであるから、議論は決して生じないとも言う(128節)。だが、激しい議論を巻き起こす哲学的主張が含まれているからこそ、『哲学探究』のさまざまな部分について、おびただしい数の論文が書かれてきたのではないだろうか。われわれが慣れている哲学のスタイルでは、哲学者がある主題について伺かを言うならば、それは、その主題についての主張であるし、そうした主張の背景に、それなりにまとまった一群の主張もまた見出されるならば、そこには「理論」があるとみなしがちである。そうした発言は、主張ではないし、また、理論の一部でもないと言われても、少なくともそうした発言を哲学に属する発言であるとみなす限りでは、これ以外の仕方でそれを取り上げ、それと対話を交わす術はないように思われてしまう。

たしかに、哲学者たちと話していて驚かされることの一つは、彼らが本当に気軽に「理論」という語を多用することである。

彼らのこの習慣の甚だしさは、たとえば私が「私が話したことを〈理論〉という語で表現されるのは迷惑だ」とはっきり伝えても、彼らがこの言葉を使うことを決してやめてくれない、といったところにも現れる。
理論という語のこの使い方は、他の分野の人々のそれとはかなり違っているように私には思われる。
・・・と書き付けてみて気づいたが、哲学者たちであれば「理論」や「テーゼ」といった語を使う場所に、私は、その代わりに私は「トゥルーイズム」という語を置いているのだな。