第3章第9節「ダブル・コンティンジェンシーと自己準拠」

基底的自己準拠(要素=行為水準の自己準拠)/社会的自己準拠(社会システムと関連した自己準拠)
  • [一方では、]要素(=行為)の自己関連付けは、要素と要素の選択的な結合のために作り出されており、その結合のために用いられている。
  • [他方では、]こうした自己準拠は、もう一人の自我の観点をとおして自我によって点検されて作動しているのであり、したがって、一方の自我だけではなしえないのにもう一人の自我の自己準拠との関連において行為が実行されるのだから、つねに同時にまた、自己準拠のもう一つの水準、すなわち社会システムと関連した自己準拠が、しかるべき役目を果たしているのである[...]

自己準拠というものは、

  • 一方では、自我のおこなう行為が、もう一人の自我のパースペクティヴをとおして自我によって点検されるということなのであり、
  • 他方では、自我のそうした行為は、まさにそのことをとおしてその行為がおこなわれている社会システムに組み入れられているということに他ならない。[p.203]

[基底的自己準拠と社会的自己準拠が相互構成的であることは、]要素があるとすれば、それはシステムの要素であるほかはない ことをまさしく意味している。[p.203-204]

ダブル・コンティンジェンシーの問題は、基底的自己準拠から考えられるのか、それとも社会的自己準拠から考えられるのかに応じて、異なって把握されるというこに注意が払われなければならない。[p.204]



ダブル・コンティンジェンシーの純粋な状態などはありえないし、これまでの歴史にもなかったと(自然法理論のいう自然状態に対してのように)反論されるかもしれない。人々は、いっさいの前提無しに、またいっさいの期待を抱かずに、互いに出会うことはないし、また人々は、行動類型に基づいてのみ、また期待に基づいてのみ「別様でも有りうる」という意味でのコンティンジェンシーを体験しているといってよい。しかしながら、こうした反論は、社会が再生産にさいして社会それ自体を前提としなければならないオートポイエシス的システムであることを確認しているに過ぎない。社会システムが 絶え間なく変化している諸条件のもとで 時間化された出来事としての要素を基礎として 継続的に再生産されるために必要な、あの自由度こそ、ダブル・コンティンジェンシーとして経験され、またかかるものとして再生産されているものにほかならないのである。 [p.208]

第3章第7節「システム境界をめぐる問題」

  • テーゼ: ダブル・コンティンジェンシーは、不可避的に社会システムの形成に帰着し、その意味で、その(...)持続問題として自触媒作用をおこなっている。[p.195]


ジンメルからの引用:

二人の人々の関心が 同一の対象に向けられる場合はどんな場合でも、二人の関心の共存の可能性は、その対象の内部の境界線によって それぞれの領域が区切られるということに依拠している。

社会学―社会化の諸形式についての研究〈上〉

社会学―社会化の諸形式についての研究〈上〉

社会学―社会化の諸形式についての研究〈下〉

社会学―社会化の諸形式についての研究〈下〉

第3章第5節「自触媒作用と予測可能性」

関与システムの行動は、その行動のそれ以外の規定可能性という自由のもとでおこなわれる場合に 行為になる。[p.185]

自己触媒作用
  • 社会システムは、ダブル・コンティンジェンシー問題によって生み出される。
  • ダブル・コンティンジェンシー問題は、社会システムの構成要素である。[p.185]



問題概念、ダブル・コンティンジェンシー概念、自触媒作用概念は、それぞれ科学的研究の対象システムの特定されるコンテクストで形成されており、そうしたコンテクストのなかでそれぞれの位置と役割が見いだされ、確証され、あるいは 継承概念Nachfolgebegriff が発掘されたりしなければならない。[...] したがって、問題は実在している Es gibt Probleme と言わなければならない。

継承概念...。

第3章第4節「ダブル・コンティンジェンシーと不確実性」

「ダブル・コンティンジェンシー」という問題設定はなんの役に立つか。

「進化論的・形態発生的理論構築のために」ということのようです。

 「純粋」なダブル・コンティンジェンシー、したがって社会的に完全に未規定な状況は、たしかにわれわれの社会的現実のなかにはけっして見いだされない。そうであるにもかかわらずこの出発点は、決定的に重要な問題をさらに追求するのに適している。ここから出発すれば、たとえば、

  • みずからの規定と相手の規定の循環を自己決定によって打破するのに あらゆることがら が適しているのだが、それでも 特に それに適しているのは何なのか、
  • ある社会構造が他の社会構造よりも より用意に成立するということを確実ならしめる選択の利点は、どこに存しているのか

という問題を考察できることになる。 [p.183]

[...] この種の進化論的(ないしは形態発生的)アプローチにとって重要なのは、

  • 淘汰の利点が貫徹しており・淘汰によってそれ以外のものや可能なものを阻止している規則なるものは、
  • 進化を通して形成される構造とは「似ても似つかぬ」ものであり、
  • それゆえたとえば「モデル」とか「プラン」としてのように機能してはいない

ということである。[p.184]

第3章第3節「不確実性の公理」

(23) にエスノメソドロジーに対するやや長めのコメント。

[179] この[秩序問題について単純で積極的な解決策を用意するのではなく、有りそうにないものが如何にして有りそうなものになるのかを問うという]第二の見解は、DKの問題を徹底化することで、その準備が整えられる。この見解は、「いかにして社会秩序は可能か」という問いを、こうした社会秩序の可能性がなによりもまず 有りそうにないということが明らかにされうることを通して実現している23
[注23] その限りにおいて、エスノメソドロジーの企てとのいくつかの類似点がみられる。とりわけ、日常生活の自明性を疑問視して、実験的な正面攻撃をとおしてや科学的な定式化をさらに分析する精緻な言語分析をとおして日常生活の自明性がコンティンジェントなものであることを明らかにする企てという点で類似している。しかしながら、こうしたエスノメソドロジーの努力は、エスノメソドロジー自体のジェスチャーに縛り付けられていると少なくとも今のところは見受けられる。こうした努力は、日常生活のあり様を詮索できるし、そうして自らのジェスチャー行動が日常行動としてとりおこなわれることもできる。しかし、エスノメソドロジーのそうした表出的な行動は、けっして理論をまだ提示していないのであり、まさにたんなるジェスチャーにとどまっている。

第3章第2節「ダブル・コンティンジェンシーの論理」

  • [164] DKという定式は、関与者を「人間・主体・個人・人格」など具象的な存在として表象してしまうという強固な前提を解消するのに役立つ。
    • 「既存の前提を解消する」というなら、それに対する代替案を示さなければならないだろうが、ルーマンによる代替案の核心は、「相互浸透」概念に(つまり別の章に)ある。
    • ここで併せて捨て去りたいのは、この問題を「相互作用」「鏡像」「パースペクティヴの相互性」「パフォーマンスの相互性」といった諸概念で扱おうとしてきた伝統である。

167 で「パースン」と「パーソナル・システム」の導入。

  • [168] DKは、関与者が互いに相手にとって透明ではなく、計算しがたく、理解しがたく、それぞれ意味を使用していることから発生する。
  • [170] DKは、そこにおいて、どんな限定が加えられ、どのような不確かさが削減されるのかに注目している。
    • こうした不確かさの吸収は、(行動の安定化によってではなく)予期の安定化をとおして行われる。
  • [171] 重要なのは、観察不可能なものに一定の意味を付与し、それをシステム間接触の双発的水準に移し変える、観察者の方策である。
    • これを、「パースン」「知能」「記憶」「学習」といった諸概念を基礎にして論じるのはやめよう。
    • 「パースン」は、それがいかにして成立するのかは観察されえないが、ある心理システムに見いだされる行動と期待の結びつきを通して期待の確実性(別言すれば、相手を知るにいたることによってもたらされる確かさ)が増していることを言い表している。
    • 「知能」は、それがいかにして成立するのかは観察されえないが、自己準拠的システムが、そのシステムそれ自体と接触して これであって他ではない問題解決を選んでいるということを言い表している。
    • 「記憶」は、あるシステムの その時点で顕在化している複合的な状態が 次なる事態へ どのように移行するのかを観察できないので、そのかわりにインディケーターとして過去に選び出されたインプットを用いなければならないことを言い表している。
    • 「学習」は、それによってどのようにして情報が広範囲におよぶ諸帰結を引き起こすのかは観察されえないが、情報があるシステムにおいて部分的な構造変動を惹起して、しかもそのことにより、そのシステムの自己同一性が壊されない場合のことを言い表している。
  • [171-2] 人は、自分でもこうした術語でもって自分のことを理解するし、したがって自分のことを「パースン」であると理解する。誰も、こうした諸概念で言い表される以上に より精確に他人を観察できはしないので、各人が自分のことを「パースン」であると理解することに異議を唱えることはできない。
    • この種の「心理的なもの」は、DKを通して自触媒作用に基づいて生み出される、社会システムの創発的リアリティの一部なのである。

172

こうした仕方で獲得された相対的な透明さは、当然のことながらその代価を支払わなければならない。それをあがなっているのがコンティンジェンシーの体験である。獲得される構造が底なしで計り知れないことは、別様の可能性もありうるということを一律に容認することで埋め合わされている。パートナーの抱いている知見やパートナーの行っている算定を捉えることができないので、その代わりにパートナーの自由を容認することで埋め合わされ、そうすることでコンティンジェンシーの取り扱いに役立つ知見だけで済まされうることになる。こうした縮減は、相手の行為に関する体験に基づいておこなわれており、そのことによりまさしく相手の自由を容認することをとおして進められている。これこそ我々の理論にとって核心部に位置する、高度に統合力のあるテーゼである。

  • [174] 自分が相手の環境の中で相手によってどのように体験されているのかを知っている場合にしか、相手に対して行為することはできない。これが「すべての意味には社会次元が存している」ということの意味である。

第3章第1節「パーソンズを超えて」

われわれのテーマは、社会的に行為するということの一根本条件そのものである。ダブル・コンティンジェンシーというこの問題の解決なしには、行為は成立しない。なぜなら、その規定の可能性が欠けているからである。[p.159]

ダブル・コンティンジェンシーの問題が、行為の可能性の不可欠の前提条件であるということ、およびそれゆえに行為システムの要素すなわち行為は、この行為システムにおいてのみ、かつダブル・コンティンジェンシーの問題の解決を通してのみ構成されうるということを、心にとめておかなければならない。

意味を体験している心理システムが見いだされるやいなや、ダブル・コンティンジェンシーの問題は、潜在的につねに存在している

  • 自由な選択をしているとみなされる 他のパースンまたは社会システムに出会うまでは、ダブル・コンティンジェンシーの問題は、焦点付けられないままに あらゆる体験にともなわれている
  • 他のパースンや社会システムに出会うと、ダブル・コンティンジェンシーの問題は、相互の行動の調整問題として顕在化することになる。[p.162]
「社会的次元」と「行為システム」の分出

このようにパーソンズを修正した理解をすると、ダブル・コンティンジェンシーは、二重の効果を有している。

  • 一つには、社会の人々のそれぞっれ異なるパースペクティブのための特別な世界次元(社会的次元)の分出が可能となり、
  • もう一つには、特別の行為システム(社会システム)の分出が可能になる。

そうすると、社会的なるものは、

  • 意味についての解釈パースペクティヴの同一または相違の問題として、あらゆる意味との関連において補足可能となる。と同時に、社会的なるものは、
  • その環境とそれ自体を区別しうるシステムにおいて諸行為が選択的に結びつくさいの特別の誘因なのである。

パーソンズの理論的アプローチをこのように修正することによって、現象学とシステム理論、意味分析とシステム/環境-分析が、それぞれ互いに歩み寄ることができることになる。そのためには、ダブル・コンティンジェンシーの問題について、パーソンズの論述の抽象化の水準を超えてさらにいっそう理解を深める必要があるおはいまや歴然としている。[p.163-164]

第3章「ダブル・コンティンジェンシー」

節タイトルは訳者によるもの

  1. パーソンズを超えて [06.0]
  2. ダブル・コンティンジェンシーの論理 [12.0]
  3. 不確実性の公理 [05.5]
  4. ダブル・コンティンジェンシーと不確実性 [04.0]
  5. 自触媒作用と予測可能性 [05.5]
  6. 秩序問題の新しい地平 [05.0]
  7. システム境界をめぐる問題 [02.5]
  8. 信頼と不信頼 [03.5]
  9. ダブル・コンティンジェンシーと自己準拠 [07.5]
  10. ダブル・コンティンジェンシーにおける選択の問題 [04.0]