第3章第3節「不確実性の公理」

(23) にエスノメソドロジーに対するやや長めのコメント。

[179] この[秩序問題について単純で積極的な解決策を用意するのではなく、有りそうにないものが如何にして有りそうなものになるのかを問うという]第二の見解は、DKの問題を徹底化することで、その準備が整えられる。この見解は、「いかにして社会秩序は可能か」という問いを、こうした社会秩序の可能性がなによりもまず 有りそうにないということが明らかにされうることを通して実現している23
[注23] その限りにおいて、エスノメソドロジーの企てとのいくつかの類似点がみられる。とりわけ、日常生活の自明性を疑問視して、実験的な正面攻撃をとおしてや科学的な定式化をさらに分析する精緻な言語分析をとおして日常生活の自明性がコンティンジェントなものであることを明らかにする企てという点で類似している。しかしながら、こうしたエスノメソドロジーの努力は、エスノメソドロジー自体のジェスチャーに縛り付けられていると少なくとも今のところは見受けられる。こうした努力は、日常生活のあり様を詮索できるし、そうして自らのジェスチャー行動が日常行動としてとりおこなわれることもできる。しかし、エスノメソドロジーのそうした表出的な行動は、けっして理論をまだ提示していないのであり、まさにたんなるジェスチャーにとどまっている。