第3章第2節「ダブル・コンティンジェンシーの論理」

  • [164] DKという定式は、関与者を「人間・主体・個人・人格」など具象的な存在として表象してしまうという強固な前提を解消するのに役立つ。
    • 「既存の前提を解消する」というなら、それに対する代替案を示さなければならないだろうが、ルーマンによる代替案の核心は、「相互浸透」概念に(つまり別の章に)ある。
    • ここで併せて捨て去りたいのは、この問題を「相互作用」「鏡像」「パースペクティヴの相互性」「パフォーマンスの相互性」といった諸概念で扱おうとしてきた伝統である。

167 で「パースン」と「パーソナル・システム」の導入。

  • [168] DKは、関与者が互いに相手にとって透明ではなく、計算しがたく、理解しがたく、それぞれ意味を使用していることから発生する。
  • [170] DKは、そこにおいて、どんな限定が加えられ、どのような不確かさが削減されるのかに注目している。
    • こうした不確かさの吸収は、(行動の安定化によってではなく)予期の安定化をとおして行われる。
  • [171] 重要なのは、観察不可能なものに一定の意味を付与し、それをシステム間接触の双発的水準に移し変える、観察者の方策である。
    • これを、「パースン」「知能」「記憶」「学習」といった諸概念を基礎にして論じるのはやめよう。
    • 「パースン」は、それがいかにして成立するのかは観察されえないが、ある心理システムに見いだされる行動と期待の結びつきを通して期待の確実性(別言すれば、相手を知るにいたることによってもたらされる確かさ)が増していることを言い表している。
    • 「知能」は、それがいかにして成立するのかは観察されえないが、自己準拠的システムが、そのシステムそれ自体と接触して これであって他ではない問題解決を選んでいるということを言い表している。
    • 「記憶」は、あるシステムの その時点で顕在化している複合的な状態が 次なる事態へ どのように移行するのかを観察できないので、そのかわりにインディケーターとして過去に選び出されたインプットを用いなければならないことを言い表している。
    • 「学習」は、それによってどのようにして情報が広範囲におよぶ諸帰結を引き起こすのかは観察されえないが、情報があるシステムにおいて部分的な構造変動を惹起して、しかもそのことにより、そのシステムの自己同一性が壊されない場合のことを言い表している。
  • [171-2] 人は、自分でもこうした術語でもって自分のことを理解するし、したがって自分のことを「パースン」であると理解する。誰も、こうした諸概念で言い表される以上に より精確に他人を観察できはしないので、各人が自分のことを「パースン」であると理解することに異議を唱えることはできない。
    • この種の「心理的なもの」は、DKを通して自触媒作用に基づいて生み出される、社会システムの創発的リアリティの一部なのである。

172

こうした仕方で獲得された相対的な透明さは、当然のことながらその代価を支払わなければならない。それをあがなっているのがコンティンジェンシーの体験である。獲得される構造が底なしで計り知れないことは、別様の可能性もありうるということを一律に容認することで埋め合わされている。パートナーの抱いている知見やパートナーの行っている算定を捉えることができないので、その代わりにパートナーの自由を容認することで埋め合わされ、そうすることでコンティンジェンシーの取り扱いに役立つ知見だけで済まされうることになる。こうした縮減は、相手の行為に関する体験に基づいておこなわれており、そのことによりまさしく相手の自由を容認することをとおして進められている。これこそ我々の理論にとって核心部に位置する、高度に統合力のあるテーゼである。

  • [174] 自分が相手の環境の中で相手によってどのように体験されているのかを知っている場合にしか、相手に対して行為することはできない。これが「すべての意味には社会次元が存している」ということの意味である。