ダブル・コンティンジェンシー再訪(未遂

敬して遠ざけていた*ルーマンシステム論の中核概念「ダブル・コンティンジェンシー」**について、この機会に少し考えてみようかしら、などと一瞬思いかけ、ここはひとつ まずは馬場さんの三田逐語講義を参考にさせていただこうかと思ったら...。
なんと、2章「意味」がおわったあと、3章「ダブル・コンティンジェンシー」を飛ばして4章、5章に進んじゃったのね.....

絶望したのでやはり敬して遠ざけておくだけにします。




* ルーマンが「偶然性Kontingenz」について議論するときに、「ダブル」なそれを特別扱いするのは、

  • ルーマンが、社会関係-において/にとって- 二者関係が基底的なものだと想定しており、したがって、
  • その議論が「二者構成」で出来ている

からだろう。

解説者もしばしばこれを「当然のこと」であるかのように あっさりと追認している。たとえば長岡御大の『ルーマン/社会の理論の革命』を見よ。
またパーソンズの議論についてはこちらを参照のこと:http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070719/p1

 これについてルーマンは「対話的構成」という表現も使っている@『社会システム理論〈上〉』#が、同じことは、コミュニケーションの〈情報|発信|理解〉-モデル***が、 〈受信者/発信者〉という二者関係に基づいて構築されていることについてもいえる(だから、その限りでルーマンは首尾一貫しているわけだ)
 しかし、この想定には根拠が無い。というだけでなく ルーマンは、そう想定してよい根拠を(私の知る限り)どこにも示していない。

 なので私には、この理由だけからしてもう十分に、両者ともに 受け入れがたい・たいへん筋の悪い議論だと判断するに足る理由となるように思われるわけであるが、さらに後者については──論文の注にも(小宮君が)書いたけど──次のことも指摘できる:

  • コミュニケーションの参加形式が〈受信者/発信者〉だけであるはずはない(常識的に考えて)。

それだけでなく、

  • コミュニケーションの参加形式は、コミュニケーション論にとっての 大問題であり、分析の中で解明されるべき事柄であるはずなのに、
  • にもかかわらず、特定の参加形式(それも二つだけ)を前提にしてモデルをつくってしまうなら、参加形式のほうは分析できなくなってしまう****

・・・というわけなので、ルーマンコミュニケーションの〈情報|発信|理解〉-モデル なるものは コミュニケーションの分析のためには相応しくない・使えないモデルだと考える次第なのであった。

まぁそもそも、こんなもの、スペキュレーションによって拵えられた、コミュニケーションの実情には まったくそぐわないシロモノである。使えなくて当然なのであるが。
そうじゃないと考えてる人は、実際にこいつを使ってなんか具体的なコミュニケーションを分析してみせてくれたまえ。(でも無理だろ?)


** 『社会システム理論〈上〉』第3章および『システム理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈1〉 (ニクラス・ルーマン講義録 1)』最終章。
*** 訳語は三谷提案準拠。
**** この点については、上記論文の参照文献にも挙げておいた次の著作も参照のこと:



追記 2009/06/26 18:30

b:id:nabeso
春日論文読むと、やっぱり「別様でもありうること」が基底的に思える。ダブルつーても、自分の心理システムに再参入しているドナタカだから、一人でもいーような。もにょ 2009/06/26

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090624%23p2
  • nabesoさんは ここで、別様可能kontingent と、 を 対比してるんですかね。
「別様可能であること」-と-「ダブルであること」とを対比してるんでしょうか。そしてたとえば、「別様可能性」こそ重要な論点で、「ダブル」であることは重要ではない、とか言いたいのでしょうか。 ──もしそうなら(その限りで)私と見解の一致をみることになるの「かも」しれません(が?)。
しかしルーマンについていうなら、彼の主張をそのように読むことは無理でしょうね。だってなにしろ章タイトルは(他ならぬ)「ダブル・コンティンジェンシー」なんだし、「ego と alter」*とか「2つのブラック・ボックス」**とか「2つの情報処理機関」***とかについて語られているからこその「ダブル・コンティンジェンシー」であるわけなので。
* 『社会システム理論〈上〉』訳 p.162頁 / ** 訳 p.168 / *** 訳 p.
  • 「自分の心理システムに再参入しているドナタカ」の話*って? 誰かが心理システムに参入するの? しかも再び?   ・・・どういうこと???
* ちなみに、この解釈によれば、邦訳 p.201-(9節)あたりの議論は どう理解できるんでしょうか。あるいはまた「この種の「心理的なもの」は、ダブル・コンティンジェンシーをとおして自触媒作用に基づいて生み出される、社会システムの創発的リアリティの一部なのである」(訳 p.172)、あたりとか。


「春日論文」って『ルーマン理論に魅せられて』の2章「ダブル・コンティンジェンシーについて」のことですかね。あとで私も読んでみます。



追記2 2009/06/26
読んでみた。

ルーマン理論に魅せられて

ルーマン理論に魅せられて

第2章「ダブル・コンティンジェンシーについて
  • 2-1 問題の所在
  • 2-2 ダブル・コンティンジェンシーとはどんな状況なのか
  • 2-3 パーソンズの問題処理とそれに対する批判
  • 2-4 ルーマンの問題突破
    • 2-4-1 コンティンジェンシー概念の拡張
    • 2-4-2 コンティンジェンシーとダブル・コンティンジェンシーの区別
    • 2-4-3 ブラック・ボックスゆえに成り立つシステム
    • 2-4-4 最後の一歩?
  • 2-5 小松丈晃氏の「ダブル・コンティンジェンシーの論理*」(1996)へのコメント
  • 2-6 結論
* 『社会学研究』第63号 (1996年5月、東北大学文学部社会学研究科)
春日さんも、ルーマンの「ダブル・コンティンジェンシー」論が「対話的に・二者関係の議論として」構成されていること自体については、何の検討もしてないようですが?