引用

  • pp. 27-28 コミュニケーション(論)と行為システム(論)の関係について。注15 の参照先はゴフマン。

行為システムがシステムであるのは、行為のコミュニケーション的な意味…によってである15

  • コミュニケーションとは、事実的な行為遂行のうちに存するシステム形成的な契機だが、
  • 逆にシステムはコミュニケーション過程を構造化し、もってコミュニケーションをそもそもはじめて間主観的に理解可能なものたらしめるものである。
  • p. 28 続けて、「基本権をコミュニケーション論的に再検討することで、なぜ社会分化論を論じたことにもなるのか」の見通し:

このような一般的な出発点が正当であるとすれば、社会分化に関わる問題はコミュニケーション過程のうちで再発見されるはずであり、社会的コミュニケーション制度への要請のうちに表現されてくるはずである。

  • p. 28 機能分化が成立するためには、コミュニケーションはどのようでなければならないか:

機能的に特定化された分化が可能となるのは、ただ

  • 予期形成-と-コミュニケーションの一定の「融通性」とが制度化されている場合だけ、
  • 個々人が自らの役割パートナーをある範囲の中で選択し、そのパートナーと関わる中で 自己表出や それ以外の自分に関わることの伝達や 彼が他者における予期を自由に処理しうる(あるいは他者に自由に処理されうる)場合だけ
    である。
そのようなものとして挙げうるのは、
  • 固有の役割を通して行われる──そしてその限りで「非人格的な」ものとして行われる──社会的交通17
  • 社会的諸関係の中で高度に役割が分化されていることの理解18
  • それに対応することだが、コミュニケーションの制限をいわば自動的に尊重すること
  • そしてプライヴェートな領域外での一切のコンタクトに際しては、行為連関への同調がザッハリッヒに(人格的にではなく)行われること
    である。
  • p. 29 第二章と第三章では「機能分化が成立するためにはコミュニケーションの様式がどのようでなければならないか」の話をしますよ、と:

社会文化のこのような一般的な予備条件の分析は、以下の2つの章で更に深められる予定である。