第5章 ミシェル・フーコーの未熟な科学

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1979年アメリカ哲学会西部部会。『言葉と物―人文科学の考古学』と「通訳不可能性」・「自然種」について。

フーコーの知の考古学と現代アメリカにおける知識論を比較し、両者の相違を論ぜよ」という試験問題を出された学生にでもなったつもりで考えてみよう [190]

通訳不可能性

パラケルススを理解するには、膨大な量のテクストを読まなければならない。ルネサンス期の多くの分権を理解するために、その助けとなるような枠組みを私に与えてくれたのが、『言葉と物』の最初の数章であった。パラケルスス自身には明晰に述べることが出来なかったかもしれない概念を判明にすることができれば、あなたがパラケルススのような語り口を身につけることさえ可能だろう。そしてそのとき使う言語は英語でもいい。このことと翻訳の問題はほとんど無関係だからだ。「善意の原則」に従って、できるだけ彼が正しいことを言っているように解釈しようとすることなど、役に立たないばかりか有害ですらある(…)。他方で、パラケルススが「何を指示しているか(referring to)」について、「疑わしきは罰せず」の原則を当てはめることも、ほとんど役に立たない。やる意味があるのは、新しい可能性のカンバスを作り上げること、あるいはむしろ、今では完全に廃れてしまった可能性の体系を、修復して元に戻すことだ。[205]

自然種

フーコーのプロジェクトの一つは、いかにして「対象が言説においてそれ自身を構成する」のか、これを理解することであった。

未熟な科学についてわれわれが知っていることはどれも次のことを示唆している。すなわち、どんな特定の思考の集まりも、いくつかの限られた種類の「種」についてしか成り立たないような、いくつかの限られた種類の「法則」にしか現れえないような、いくつかの限られた種類の「対象」しか定義できない、ということである。対象がそういうものであるのなら、われわれはそれらについて唯名論者であるより他はない。しかし「○○論」とか「○○主義」などというものはさして重要ではないのだ。

すべての知識がそうではないとしても、それらの多くはこうした意味で「未熟」なのだから、言説において対象がそれ自身を如何に構成するかを理解しようとする試みは、一つの主要なトピックになるだろう。ただし知識の理論のトピックかというと、それはちょっと違う。それが中心課題として論じられる場を、私はいま歴史的存在論と呼ぶのである。[208]