本日の涜書

ブクオフさまさま。

ポンティ本でホワイトヘッドを(ちょっとだけだが)扱ってるのが珍しい(?)感じ。コレージュ・ド・フランス講義ノートに言及があるとのこと。

メルロ=ポンティベルクソン[における「同時性」という論点]に対する解釈の視点は、フッサールの相互主観性概念によると同様、ホワイトヘッドの「自然の移行」の空間的側面および同時性概念に規定されているとみることも可能であろう。[p.194]

とかいう記述があって「へー」とぞ思う。


著作としては評価の分かれるところでしょうな。

本書で、ライプニッツシェリングホワイトヘッドメルロ=ポンティという流れを描きながら、「自然の現象学」として指摘したかったのは、有機体はメロディーであり、自然はそのメロディーのハーモニーだ、というユクスキュルの「偉大なタブロー」の重要性である。[p.249 3章二(4)]

云々、とかいうのに憑いていける人には楽しいんでしょうが、私には残念ながら。
ライプニッツシェリングホワイトヘッドメルロ=ポンティ」が「重要だ」などということは、このタイトルで売られている本を手に取る人ならば、読む前から分かっていること。

「自然の哲学*1」というタイトル、私には「ドキュソです」という看板にしか見えないけど。(ある種の)哲学の人はぜんぜん気にならないようです。おおらかで、楽しい業界のようで、それは(少し)羨ましい*2
そして/しかし、それらのテクストを実際に経めぐる というコストをかけた上で出てくるのが 有機体はメロディー(以下略)」だというのでは まるで藁えない。
というかそもそも、ひとは果たして、ほんとうに真面目に──あるいは哲学的に、でもいいですが──ものを考えた上でもこういう台詞を吐けてしまうものなのかどうか、という点について ついつい思いを巡らしてしまったりもするわけですが...。まぁ──所詮はそれも──好きずきの問題なんですかねぇ。
「自然はそのメロディーのハーモニーだ!」と力説してみてそれでなんなのか(だからどうした! )。 それって単にユクスキュルって言ってみたかっただけちゃうんか といいたくもなり。

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メルロ=ポンティ存在論情報理論の関係を考察したすぐれた論文として[p.249 3章二(1)]

次の二本があげられているが、文献コピーのコストを払うべきかどうか悩む:

  1. 廣瀬浩司*3「個体化の多数性と存在の統一のかなたに(情報・エネルギー・システム)」(『東京大学教養学部外国語科研究紀要』第42巻第2号、1994)
  2. 廣瀬浩司「舟なき軌跡としての生──メルロ=ポンティにおける生命科学*4」(筑波大学『言語文化論集』第45号、1997)

が、いちおうメモっとこう。

「情報・エネルギー・システム」という、大雑把で大味で大風呂敷なサブタイトルを見ただけで、一生懸命──「紀要」に書かれてしまうと大学の外にいる人にはほとんど入手できなくなる訳だが──入手コストをかけようという気は萎えかけるが。まぁ、プリンの味は食べてみないとわからない、と申しますし。

*1:似たようなものに「生命の哲学」とか。「生命論」とか(w。そういえば「オートポイエーシス」も、ソレ系のアイドル用語((C)河本英夫)として そこそこ人気を博しているようで おめでてーな。

*2:どうして「自然科学(のテクスト(!))の-哲学による-再-記述」という、もっとましで・もっと適切で・もっと慎ましく・もっと正確で・もっと正直(以下同様以下略)な 看板を掲げないのか? 「それだと 偉そうにみえない から」なのか?──という疑いは生じるにしても。

*3:どこかで拝見したお名前ですね と思ったら、『主体の後に誰が来るのか?』『歓待について』の訳者だった。

*4:タイトルのつけ方 あからさまに間違ってるねぇ(ポンティが「生命科学研究をしたか!?してねーよ!)。 謂うなら「メルロ=ポンティとっての生命科学」か「メルロ=ポンティのテクスト)における生命科学の扱われ方」か、のどっちかじゃねーの? そう書かないのは「それだと(以下略)。 つーか俺の日本語感覚が間違ってるのかなぁ...。まぁいいけど。