東西南北中央〜あらゆる場所に社会学が〜

で、その「社会的秩序はいかにして可能か」ネタがらみで ついでに。
引用【1】http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040307#p1


社会学の第一の問いは、「社会秩序はいかにして可能か?」というものだ(った)とよく言われます。[‥] 最終的にはパーソンズによって「ホッブス問題」として定式化されます。しかし60年代に、この問いそのものの論理的自己撞着性が指摘されることになります。[‥] かくして、説明されるべき偶発的結果(秩序)が、先取りされて必然的なものとして前提されているのではないか、と。
引用【2】http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040212#20040212f5

5:したがって浜日出夫(1996)によって「ルールの共有という事実ではなく,ルールが共有されているという仮定が,相互行為を支えている」(浜 1996: 32)として整理されたガーフィンケルの「信頼」と,ジンメルの「信頼」の「同型性」は,ルーマンにおいてはむしろ「相補性」として捉えられる.システム信頼(ジンメルの貨幣取引への「信頼」)は,むしろ「他者は同じルールに従わないだろう,その可能性は高い」という社会的次元における複雑性に対処する解決策として要請される.

引用【2】において言われているように、システム信頼が,

「他者は同じルールに従わないだろう,その可能性は高い」[‥]に対処する解決策として要請される
というタグイのものだとすると、それは、引用【1】に謂う「説明されるべき偶発的結果(秩序)が、先取りされて必然的なものとして前提されている」タグイの議論になりませんかね*。
* たしかに/実際ルーマンは、しばしばこのダグイのことを謂っているようにしか読めない発言をしているので**、この読みを「間違い」だと言ってのけるのは難しそうです。が***、さしあたり「ルーマン解釈」を離れて考えるとどうでしょう。
** たとえば『信頼』の5章*1の最初のほうや、パーソンズ記念論文集****に載った「コミュニケーションメディア」論文で、「コミュニケーションメディアがコミュニケーションを保証する」とか「架橋する」とかいう言い方を、香具師はしているので。
*** したがってそうはいいません。で、──ルーマンが首尾一貫して、そうした「形式分析的=構築的」な議論をしていてくれるなら、それはそれで、「そういう人」なんですね という理解を以て応対(というか無視)すればいいだけなんですが──、困惑するのは、香具師がこのやり方では整合的に読めそうにないこともたくさん書いているから、なのですねぇ。
「他者は同じルールに従わないだろう」という事態が、「コミュニケーションメディア(への信頼)」によって「解決」される と述べるなら、それは、議論のステップを一つ変えただけで、つまるところ、「〜〜がコミュニケーションを保証している」「〜〜が社会的秩序を支えている」というロジックになっているのでは?

****これね。

そういやこれ、数年前に、ルーマン・フォーラムのオンライン文献購読会で候補にあがってましたが、そのまま話が立ち消えましたなぁ。

*1:だったか6章だったか。「システム信頼」の章ね