成員カテゴリー化装置(その3):レリヴァンス/リファレンス

hidexさんの問題関心とは離れた方向へ(?) だらだらと話を流して逝ってみるわけですが。

初めて見るようなテーブルを見たときでも、われわれは「あ、テーブルだ」とわかるわけでして。でーこれはGHミードいうところの「呼応answering」(=腰掛に腰掛けるという行為傾向の凝固物が腰掛*4)みたいなもので、ルーマンの「レレヴァンス」はそこまで射程に入れているだろうと。EMのMCDは装置内でのレリヴァンスなわけですよね。そりゃだめだろうと。

手広く「射程に入れてい」れば偉いのか? (それなら「大先生系」の人が一番えらい、ということになりそうな気が。)

それが社会学的記述にどう効いてくるかまで含めて「射程に入れてい」なけりゃ、ぜんぜん偉くないと思う。
「特定化」に「広さ」を対置しても だめぽ。


「手続き」概念自体が超越的カテゴリーであって、つまり「ほら、わたしはこうやって手続きを示していますよ」と言ったからといって「手続き」を示したことにはならず、「じゃあ、あんたがほんとうに『手続き』を示しているということを証明して見せろよ」ということになってしまい、以後無限後退ですわな。
[略]
システム・リファレンスについて。
mlsのMLで繰り返し述べたように、システムをリファーするのはコミュニケーション(ないしオペレーション)であって、観察者ではなく、つまりコミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されているというべきなのであり、「そのコミュニケーションはいかにしてシステムをリファーしたのか」を記述することは、「システムリファレンスを示す」という課題にとっては冗長である??オーダーが1水準違う??はずです。「別の課題」にとっては良いことかもしれませんが(この「別の課題」に取り組んでいるのがEMなのだろう、という予感はしているのですが、それをしてなんになるんだ、という問いにはまだ答えられないので、EM厨としてお勉強中、というわけです)。

仮に──56億7000万歩ほど譲って──、こうした↑議論によってサックスのやったことの意義がひっくり返った、としてみましょうか。

ありえないと思いますが。
しかしそうだとしても、「システム論側の問題」は手つかずのままなんですよね。


ルーマンは、システム論の「お約束」として、

【SR】:システムリファレンスを示せ!

という命令(=看板=格律=自己制約)を掲げているわけでした。
さてここで、あり得る議論は、二つ。
(1) 仮にもしも、hidexさんの謂うとおり、

【H】:コミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されている

と考えるとするならば──正直、私はこの命題の意味をちゃんと汲み取れている自信がありませんが──、そのときには、

  • ならばそもそも、ルーマンが上記のような「お約束=看板」を掲げること自体、すでに冗長なのだ

ということになるはずではないですか。

もっとも、それ以前に(さらに)そもそも、【H】を主張する前提として、上記の問いに答えていただくのが先でしょうが。

(2) 他方もしも──【H】は間違っているのだが、しかしやはり──、【SR】は、

【EM】:レリヴァンスを示せ!

という指令=自己制約とは異なるのだ、という主張をする場合、当然、

【Q】:そもそも【SR】とはいったいどういうことだ?

という問いは、手付かずのまま「単に残っている」だけなわけです。


で。
 (1)は「あからさまにまずい」と思います。

「そもそもルーマンは、【SR】などということを大げさに謂う必要はなかったのだ」といった主張と組になっているのでなければ。
 (2)は──「ルーマンの議論とEMの議論は(少なくともこの論点については)何ら関係がない」という主張をするだけなので──、とりたててまずくはありません。贅言すると、問いが手付かずで残っているだけです。(ルーマン理論──およびそれを巡る議論──の「問題点」をEMが「解決」してくれる義理はないので、これはあたりまえな話。)
 が──そこで私は訝しむのですけれども──、そもそも多くのルーマニ屋さんたちが書くテクストの中で、この【Q】が、明示的かつ適切に問われているところ、見たことありますか?
わたしはあんまり記憶にないんですが?


私自身の考えは次の通り:

  •  
  •  


一気にめんどくさくなったので、この項 省略。