hidexさんの問題関心とは離れた方向へ(?) だらだらと話を流して逝ってみるわけですが。
初めて見るようなテーブルを見たときでも、われわれは「あ、テーブルだ」とわかるわけでして。でーこれはGHミードいうところの「呼応answering」(=腰掛に腰掛けるという行為傾向の凝固物が腰掛*4)みたいなもので、ルーマンの「レレヴァンス」はそこまで射程に入れているだろうと。EMのMCDは装置内でのレリヴァンスなわけですよね。そりゃだめだろうと。
手広く「射程に入れてい」れば偉いのか? (それなら「大先生系」の人が一番えらい、ということになりそうな気が。)
「手続き」概念自体が超越的カテゴリーであって、つまり「ほら、わたしはこうやって手続きを示していますよ」と言ったからといって「手続き」を示したことにはならず、「じゃあ、あんたがほんとうに『手続き』を示しているということを証明して見せろよ」ということになってしまい、以後無限後退ですわな。
[略]
システム・リファレンスについて。
mlsのMLで繰り返し述べたように、システムをリファーするのはコミュニケーション(ないしオペレーション)であって、観察者ではなく、つまりコミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されているというべきなのであり、「そのコミュニケーションはいかにしてシステムをリファーしたのか」を記述することは、「システムリファレンスを示す」という課題にとっては冗長である??オーダーが1水準違う??はずです。「別の課題」にとっては良いことかもしれませんが(この「別の課題」に取り組んでいるのがEMなのだろう、という予感はしているのですが、それをしてなんになるんだ、という問いにはまだ答えられないので、EM厨としてお勉強中、というわけです)。
仮に──56億7000万歩ほど譲って──、こうした↑議論によってサックスのやったことの意義がひっくり返った、としてみましょうか。
ルーマンは、システム論の「お約束」として、
【SR】:システムリファレンスを示せ!
という命令(=看板=格律=自己制約)を掲げているわけでした。
さてここで、あり得る議論は、二つ。
(1) 仮にもしも、hidexさんの謂うとおり、
【H】:コミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されている
と考えるとするならば──正直、私はこの命題の意味をちゃんと汲み取れている自信がありませんが──、そのときには、
- ならばそもそも、ルーマンが上記のような「お約束=看板」を掲げること自体、すでに冗長なのだ
ということになるはずではないですか。
(2) 他方もしも──【H】は間違っているのだが、しかしやはり──、【SR】は、
【EM】:レリヴァンスを示せ!
という指令=自己制約とは異なるのだ、という主張をする場合、当然、
【Q】:そもそも【SR】とはいったいどういうことだ?
という問いは、手付かずのまま「単に残っている」だけなわけです。
で。
(1)は「あからさまにまずい」と思います。
が──そこで私は訝しむのですけれども──、そもそも多くのルーマニ屋さんたちが書くテクストの中で、この【Q】が、明示的かつ適切に問われているところ、見たことありますか?