2002年12月7-8日に法政大学で行われたタルコット・パーソンズ生誕100周年記念シンポジウム*1の記録。
パーソンズ・ルネッサンスへの招待―タルコット・パーソンズ生誕百年を記念して
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第4部第14章に収録されている、挟本佳代さんの「パーソンズと20世紀の科学」に、上記シンポの際に(私が)おこなった質問に対するリプライが追加されていた。のでメモしておく。
上記報告(論文)の最終段落にて挟本さんの曰く:
最後に本章では、進化の推進力が「自然」であると主張したわけだが、これに対しては、「自然」ではなく「偶然」こそが進化の推進力というべきなのではないか、という意見もありうるかもしれない。しかし、「偶然」を生み出すのは「自然」なのであり、人間ではない。生物進化にかかわる「偶然」は自然界において人工的に作り出せるものではないことはいうまでもない。人間が自然界の「偶然」を「必然」だと主張しているにすぎないのである。[上掲書 p.222]
ご覧の通り、質疑応答時のリプライとまったく同じ[→]内容なので、私の側では、あらためて述べるべきことはなにもない。(そして──ついでにいえば──、私にはこの文章が理解できない。「人間が自然界の「偶然」を「必然」だと主張しているにすぎない」ってのはいったいなんのことなんだ???)
が、この機会に、前には述べていなかったことを、
ちょっとだけ書いておこう。
タルコット・パーソンズは1930年代後半に出版した『社会的行為の構造 第1分冊』において、「スペンサーは死んだ」という言葉とともに、社会進化論に死亡宣告を突きつけておきながら、その30年ほど後にはてのひらをかえし、社会学への進化論導入を積極的に進め始めた。いま、パーソンズの 進化学との こうした付き合い方を振り返ることに、なにか意味があり得るだろうか。 ──もしあるとするならば、それは、
ということが、いまになってもなお それほど判明にはなっていない ということを意味するのではないだろうか。
まそれはさておき。
ごくトリヴィアルな発想だが──ごくパーソンズらしい、という言い方もできるが──、社会学が進化学と付き合うことの ひとつの意味=可能性は、「社会学的な歴史記述とはいかなるものでありうるか」を考えるため、というものだろう。そしてこれはパーソンズにとっても、オプションのひとつだったのであり、そしてまた、いまになっても重要な課題でありつづけているものだと私は思う。
そして、たとえばこれが、挟本氏の──自然と人間との関係ばかりを気にかけている──議論の射程には入ってこない(というか入って き よ う が な い)トピックなのである。
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