mmasumi さんにいただいたコメントに──ありがとうございます──、応答ともいえぬほどのレスポンスをば。
コメント:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040716#c
「批判的ではない → 保守的」という排中的(=第三項排除的)な語用法は、ここ↓に示したようなやりとりのなかで登場した──と理解することが可能かもしれない、と私が推論した──ものでしたが:
- [1] パネリストの皆さんが「批判的」という語を頻繁に使用されている中、
- [2] 酒井が執筆者の方に質問をし、
- [3] その酒井に対して「ルーマンは<保守的>だと言われることがありますが(以下略)」という提題をいただく。
これを山田さんの主張(におけるやりかた)と重ねて おおむね大過ないのかどうか、やっぱり確認が必要だな、と思い.....著作を探してみたのですが、(例によって)見つかりません...orz。 いずれにしてもそもそも、「保守的」も「批判的」も、非常に微妙な言葉ではありますよね(社会学の文献では──前者はともかく──後者はよく見かけるものですが)。
以下、もうちょっとこの点について考えてみたいと思います(またまた激しく「釈迦に説法」な話になってしまうような気はいたしますが....)。
(狭い意味で)「政治的」な文脈で、<革新/保守>という区別が意味を持つ(ことがある)ことは、もちろん私も否定しませんし、論を待たないことだと思います。ですが、──これ↓が上記の「ゆるい」用語法を踏襲した際に、私の側にあった事情になりますが──、こうした形容が、学的なスタンスについて、そのまま流用できるかのような議論には
ナニカを引き合いに出せば。そういう場合の「保守」の反対語は、radical でしょうかしらね。あんまり同意は調達できないかもしれませんが)。と書いてくださっていますが、そういえば、デイヴィッド・ブルアはウィトゲンシュタインを評して「ラディカルな保守主義者」と述べた(@『知識の社会理論』)のですよねw。これはさらに、「ラディカルに保守主義的であり、したがって 批判的」という含意を持ちうるものかとも思うわけですが。──とか考えてみると、もはやなにをかいわんや、という気がして参りますけれど。
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- 「学的な命題あれこれ」や「学者の行う社会記述」などなどが、「政治的(に保守的/批判的)な」含意・価値を持つことがある
というのは、
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- 「学的な命題あれこれ」や「学者の行う社会記述」などなどが、「お笑い(or 大笑い)」とか「大先生的」とか「元気づけ*2」とかの(──こういってよいでしょうが──「審美的」な)「価値」を持つことがある
というのと同様のことでしょうし、さらにそもそもそれは、たとえば
[01]え? なんていったの?
という発話が、
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- たとえば「(聞こえなかったので もう一度言ってくださいという)依頼をすること」であり得るだけでなく、時として(しかもしばしば)「非難すること」とか「拒絶すること」とかいった「含意・価値」をもつことがある
というのと同様のことでしょう(↑「釈迦に説法」攻撃が続いております↓)。
それはそれとして。
おそらくまさにここで、様々な論者たちの間で、──おそらくこういってよいでしょうが──暗黙のうちに、議論の進め方がわかれるような気もいたします。つまり。
【1】特定の「命題集合 C1」や「記述集合 C2」に対して、「それを超える-文脈」を(どこかから)持って来て、
かくかくしかじかという文脈においては
- or かくかくしかじかという文脈がある のだから
「C1」「C2」は、「保守的(/批判的 etc.)」だ。
- or 「保守的(/批判的 etc.)」な「効果」をもつ。
という議論の進め方をしてよい/して当然だ/するものだ、と考えるのか、それとも、
【2】その「文脈」なるものについて云々するためにはすでにそもそも、
- 「C1」「C2」が、「かくかくしかじかという文脈」の中に おかれているだけでなく、
- 「C1」「C2」が、「かくかくしかじかという文脈」をつくりあげてもいる、ということ
の双方を1セットとして取り出してくる、という手続きを踏まなければならない*(なんらかの「文脈」を語りうるのは、個々の指し手とその文脈とをセットにして の限りにおいてだろう)、と考えるのか、という違い、これであります*3。
「批判的エスノメソドロジー」という看板は、日本ではかなり流通している「符牒」であるように見受けられますが、この「看板」は、私にはかなり????なもののように思われます。というのは、上記のように考えてよければ、そもそもエスノメソドロジーに、「批判的」という 固定的な 修飾語を、 前もって・ウルトラな仕方で 付しておくことには意味が無いように、思われますから。
もっとも、それは、「批判的エスノメソドロジー」という看板を掲げる側の問題 というよりは(or 少なくとも、それだけの問題ではなく)、「ふつーのエスノメソドロジー」の文献が、手軽に手に入るようになっていない(学部生に「適切なオルタナティヴ」を示してあげられない)という、ふつーの「側」のほうの問題であるようにも思われはし、この点、たいへん残念な気もしてしまうのですが...。
えーっと。なんの話してたんでしたっけ?