『心脳問題』発刊イベント@四谷#に行ってきた【エクストラ番外編】(その2)

mmasumi さんにいただいたコメントに──ありがとうございます──、応答ともいえぬほどのレスポンスをば。

「批判的ではない → 保守的」という排中的(=第三項排除的)な語用法は、ここ↓に示したようなやりとりのなかで登場した──と理解することが可能かもしれない、と私が推論した──ものでしたが:

  • [1] パネリストの皆さんが「批判的」という語を頻繁に使用されている中、
  • [2] 酒井が執筆者の方に質問をし、
  • [3] その酒井に対して「ルーマンは<保守的>だと言われることがありますが(以下略)」という提題をいただく。

これを山田さんの主張(におけるやりかた)と重ねて おおむね大過ないのかどうか、やっぱり確認が必要だな、と思い.....著作を探してみたのですが、(例によって)見つかりません...orz。 いずれにしてもそもそも、「保守的」も「批判的」も、非常に微妙な言葉ではありますよね(社会学の文献では──前者はともかく──後者はよく見かけるものですが)。
以下、もうちょっとこの点について考えてみたいと思います(またまた激しく「釈迦に説法」な話になってしまうような気はいたしますが....)。


(狭い意味で)「政治的」な文脈で、<革新/保守>という区別が意味を持つ(ことがある)ことは、もちろん私も否定しませんし、論を待たないことだと思います。ですが、──これ↓が上記の「ゆるい」用語法を踏襲した際に、私の側にあった事情になりますが──、こうした形容が、学的なスタンスについて、そのまま流用できるかのような議論には

たとえば、 「立場」・「位置取り」・「スタンス」総体への形容として使われることには、
=そういうことをして学的に*1おもしろい話になるのかどうかについては、
懐疑的にならざるをえません。
つい、デリダのインタビュー集の一つに、『ポジシオン』というタイトルがついていたこと──そしてその中には、発音されはしないが複数性を示す「s」が入っていたこと──を思い出してしまう私♪
ちなみに、続けて
ナニカを引き合いに出せば。そういう場合の「保守」の反対語は、radical でしょうかしらね。あんまり同意は調達できないかもしれませんが)。
と書いてくださっていますが、そういえば、デイヴィッド・ブルアはウィトゲンシュタインを評して「ラディカルな保守主義者」と述べた(@『知識の社会理論』)のですよねw。これはさらに、「ラディカルに保守主義的であり、したがって 批判的」という含意を持ちうるものかとも思うわけですが。──とか考えてみると、もはやなにをかいわんや、という気がして参りますけれど。

    • 「学的な命題あれこれ」や「学者の行う社会記述」などなどが、「政治的(に保守的/批判的)な」含意・価値を持つことがある

というのは、

    • 「学的な命題あれこれ」や「学者の行う社会記述」などなどが、「お笑い(or 大笑い)」とか「大先生的」とか「元気づけ*2」とかの(──こういってよいでしょうが──「審美的」な)「価値」を持つことがある

というのと同様のことでしょうし、さらにそもそもそれは、たとえば

[01]え? なんていったの?

という発話が、

    • たとえば「(聞こえなかったので もう一度言ってくださいという)依頼をすること」であり得るだけでなく、時として(しかもしばしば)「非難すること」とか「拒絶すること」とかいった「含意・価値」をもつことがある

というのと同様のことでしょう(↑「釈迦に説法」攻撃が続いております↓)
それはそれとして。
おそらくまさにここで、様々な論者たちの間で、──おそらくこういってよいでしょうが──暗黙のうちに、議論の進め方がわかれるような気もいたします。つまり。
【1】特定の「命題集合 C1」や「記述集合 C2」に対して、「それを超える-文脈」を(どこかから)持って来て、

かくかくしかじかという文脈においては

    • or かくかくしかじかという文脈がある のだから

「C1」「C2」は、「保守的(/批判的 etc.)」だ。

    • or 「保守的(/批判的 etc.)」な「効果」をもつ。

という議論の進め方をしてよい/して当然だ/するものだ、と考えるのか、それとも、
【2】その「文脈」なるものについて云々するためにはすでにそもそも

  1. 「C1」「C2」が、「かくかくしかじかという文脈」の中に おかれているだけでなく、
  2. 「C1」「C2」が、「かくかくしかじかという文脈」をつくりあげてもいる、ということ

の双方を1セットとして取り出してくる、という手続きを踏まなければならない*(なんらかの「文脈」を語りうるのは、個々の指し手とその文脈とをセットにして の限りにおいてだろう)、と考えるのか、という違い、これであります*3

* このことを、たとえば、「リフレクシヴィティ」(© ガーフィンケル)と呼ぶのか、それとも「オートポイエーシス」(© ルーマン)と呼ぶのか、といった「コトバの問題」はさておくとしても。
私自身はできればどっちの「看板」も使わずに済ませたい気がしておりますがw。というのも、前者は、いまやあまりにもあれこれの論者が この語をまちまちの(しかもかなりいい加減な)用法で使いまくっているために、議論をしやすくするというよりはむしろ、場を混乱に陥れることのほうにこそ資する語のように思われますし、後者は、そもそもこの語を使用すること自体が
「学会・研究会で 平気でオートポイエーシスとか言えてしまう脳」でも持ち合わせていないと
かなり恥ずかしいという罠。


「批判的エスノメソドロジー」という看板は、日本ではかなり流通している「符牒」であるように見受けられますが、この「看板」は、私にはかなり????なもののように思われます。というのは、上記のように考えてよければ、そもそもエスノメソドロジーに、「批判的」という 固定的な 修飾語を、 前もってウルトラな仕方で 付しておくことには意味が無いように、思われますから。
というか。そもそも私には、「批判的エスノメソドロジー研究」という語は、それ自体すでに「語義矛盾」のように聞こえます。
それはそれでまぁ よい のですが、
といっても、上記のような考え方自体、私は──山田さんの著作・論文をも含む──「エスノメソドロジー諸研究」から学んだわけですから、ここで、この基本的論点の理解に反する「批判的エスノメソドロジー」という看板を掲げられてしまうと、私は、自分の理解に甚だしく不安を持たざるを得ないことになってしまう、という(私にとってはかなり重大な)「問題」はあるのですけれども。まぁ、その点はいま脇へ置くとすれば、
しかし、(半ば「ひとごと」ではありつつも)ちょっと「困ったことだなぁ」という感がしてしまうことも多々あります。いま、日本で、たとえば私のような門外漢や、これから社会学を勉強してみようとされている学部生の方の手の届く/目につくところにあるのは──つまり、書店でまず最初に見かけるのは──、おそらく、「ふつーの」エスノメソドロジーではなく、「批判的」だと称するそれのほうだろう、と考えられるからです。
もっとも、それは、「批判的エスノメソドロジー」という看板を掲げる側の問題 というよりは(or 少なくとも、それだけの問題ではなく)、「ふつーのエスノメソドロジー」の文献が、手軽に手に入るようになっていない(学部生に「適切なオルタナティヴ」を示してあげられない)という、ふつーの「側」のほうの問題であるようにも思われはし、この点、たいへん残念な気もしてしまうのですが...。
↑ここには、コメント不要ですw。




えーっと。なんの話してたんでしたっけ?

*1:加えて「政治的にも」、と書きつけたくもなるところですが。

*2:(藁。

*3:© 渡辺二郎。今日は無理だった。