涜書:パーソンズ『政治と社会構造』



本日のランチも、偉大なるアメリ社会学の父・我らが親愛なる20世紀の知的巨人・社会学史上最大最高の小言親爺こと タルコット・パーソンズ師とともにすごす1時間弱。
『制度としての基本権』がでた後に書かれたのでルーマンは読めなかった、第17章「政治と社会:若干の一般的考察」の続きを片付ける。あまりにも長大な論文で、読んでるうちに陰々滅々としてきたので「ざっくり読んだ」ことにして早々に別の章へ。

14〜16章あたりがいわゆる「コミュニケーション・メディア」論の「理論編」。こいつらもざっくりと目を通すがやはりどれも鬱で氏にそうな気配がして早々に留保なき退避・普段の半勃起。



で、時期的にそれら以前に書かれたライト・ミルズの『パワー・エリート』論批判(8章)、大統領選挙に関する調査『投票』のレビュー論文(11章)を、まあまあ丹念に読む。
ちなみに、おおまかにいえば、8章が「構造」の話、9章が「過程(コミュニケーションメディア)」の話。『基本権』の読者は少なくともこの二本は参照しておいたほうがよいように思うが、論題的に とくに直接にかかわりが深いのは、「選挙」を論じた9章のほう。


つまるところパーソンズが「政治」について語ったことは、

    • 【A】「政治」って「経済」に似てるよね。

という以上でも以外でもない。‥‥‥のだが、「だからつまらない」かというと、それだけともいえない。

「面白いか?」と尋ねられると困ってしまうので尋ねないようにしてください。
8章と9章をみると、たった【A】だけのことからパーソンズが引き出した幾つかの「分析的」な命題だけで、けっこうあれこれ語れてしまう、ということがわかる。
そして/しかし、それを「きれいにまとめて図式的に整理」してみたりすると、やはり/もはや、目も当てられないようなことになる──そして惨劇を(読者に)引き起こす──、というのが、13〜17章をみるとわかる。
たとえばミルズ批判のほうでは、

  • 【B-1】権力分析は、配分と産出の側面双方に光をあてなくちゃいけない(大意)

という主張がされているが、これの「根拠」も【A】。
「そりゃ無茶ってもんだろう」と思うのだが、それでも、そこから「導出」される「分析的」な言明と、それによる批判は「なんとなくまっとう」にみえるのである。たとえばこんなの↓:

    • 【B-2】ミルズは、「権力の配分」(誰が権力を持っているのか)ばかりに注意を向けていて、「権力の産出」(どのようにつくりだされ、どのように使われるのか。それでなにができるのか)の側面をみていない。これは権力分析としては致命的だ。(大意)
    • 【B-3】ミルズは、「権力をめぐる闘争」を、ゼロ-サム・ゲームだと思っているが──経済がそうではないように政治だって──そんなことはない。(大意)
    • 【B-4】ミルズは「多元的権力」論を批判して「パワーエリート」論を語るが、どちらもダメ。「権力」にとって重要なのは「集合性」だ。(大意)
    • (以下略)

9章のほうは。やはり【A】から

    • 【C1】「一般化された支持」と「(家政から経済組織への)労働力提供」は似てるよね。(大意)

だの、

    • 【C2】

だの

    • 【C3】

だの

    • 【C4】

だの(以下略)が引き出される、という「似てるよね分析」が延々と続く。
というか。パーソンズが延々とやっているのはほんとにそれだけなのだった。
で、それが「まったくつまらない」かというと、そうとだけもいえないのである。

「面白いか?」と尋ねられると困ってしまうので尋ねないようにしていただきたい。
【C】シリーズ・テーゼ自体は「トンデモ」(すくなくとも「無根拠」)だが、それを使って述べられることのほうは、おおむね「まことに常識にかなった」話であり、そしてたまには「発見的w」だったりすらもするのだ。(このへん、かける時間があれば──おそらくないが──また改めて書く、ということで。)
そして、パーソンズの文章に付き従いながら私は、テクストが(明示的に/暗黙に)「似てるよねー?」と問うたびごとに、おおむね、「おぉー。はいはい。似てる似てるー!」とか「似てる?かもー!」とかとうなずいていたりもするのであった。
こまったもんである。


こういうのを読んでいると、「(おもしろい・もっともらしい)社会の分析」と称するものへの疑念がふつふつと湧いてこようというもの。
パーソンズの「分析」は、「多様な・多面的な観点を導入」することができる、という点でスバラシイものであると思う。或る意味
ならばこうしたやりかたを肯定できるかといえば、そりゃもちろん、「否」に決まってる。だって「似てるよね-分析」だぜw? (──と私は思うのがあなたどう思うか。)
パーソンズの場合ベタな「似てるよね-分析」だから、はっきりと「ダメだこりゃ」というのが(いまとなってみれば)わかるわけだが、とはいうものの他方、「多様性(への指向/嗜好)」が是とされる昨今の社会学は、パーソンズほどに「多様」なのかどうか。パーソンズと違うことができているといえるのかどうか。それは相当に謎のように思われもする。


ということで、今後の社会学の財産管理方針を俺様的に提言してみると。
パーソンズをもっとも有効に利用する道は、

  • んなーことはパーソンズがすでにいっている。
    • (だけでなく、パーソンズと「似たような」ことを逝ってしまってる貴様の分析は、そもそもどこかおかしい。)
  • 貴様のその程度の「多様性」などパーソンズの足下にも及ばず。

ということになっていないかどうかを、各自・常時チェックするのに使う

という方向なのではないかと思ってみたりしたのだが。
はい。漏れモナー
精進します。
ともかくもパーソンズはやはり或る意味偉大だ、と再認する夏の昼下がり。