安藤太郎(1997)「社会問題研究の一つの方法」

昼食。ひとに薦められて読んだのだが、前評判どおりクールな論文だった。
コチーク主義をめぐってまだ残るわだかまりもよもよもやもや(の一部)が吹き飛んだよ。



執筆年は1997年。知らなかったのは たんにあまり引用されてないから、なのか。それとも私が不勉強なだけなのか。
世に「ここは一つワタクシがコチーク主義を腑分けして進ぜよう」とかと称する「解説論文」は数多いが、そのほとんどが、出発点においてヒハンしようとしていた筈の罠に自分ではまって玉砕している(のだがそれに気づいていない)ことが多いわけだけれど、こいつはそういうのとはかなり違う。あとついでに(じゃない*が)サックスの偉さ(の一端)もわかる。すばらしい。
途中、「個人→相互行為→クレーム→相互行為→個人」という図式を経由して、「クレーム→相互行為→個人」図式と「個人→相互行為→クレーム」図式をそれぞれ順に批判していくあたりなど──論じられている事柄が面白いだけでなく──議論の筋がおいやすく、わかりやすかった。

* 玉砕論考の多くは、つまるところ「認識論的」*1な枠組みのなかで議論を終始させているからなの──だと思うの──だが、し ば し ば 解 説 論 者 諸 氏 は、「相互行為」とか「言説」とか「システム」とか*2といった概念に[自分が]訴え[てい]ることで、「ワタシハ認識論的議論カラハ外レテオリマス」とプレゼンしたがる。のでタチの悪い患(中略)だと思う。
それに比べると、それより一段「素朴」な論者──たとえば、「観察者の立場」と「行為者の立場」を区別し[えたつもりになっ]て何かを言[えたつもりにな]っているような人──の方がまだかわいいというかなんというか。別にかわいくはないが*3
「自分は外れている」つもりで にもかかわらず罠にずっぽり嵌っているのは、そもそも「認識論」にちゃんとつきあってないからではないか。という予想に20ペソ。
ていうか。
結局「なにかかわりのもの」──「かわりの言葉=符牒」ではなく──がないと、いくら批判し[たつもりになって]てもだめなのよ。(で、たとえばサックスはどういう意味で「かわりのもの」でありうるか、というのがこの論文を見るとわかる、とかいうことが書きたかったわけだが。)

*1:or 「認知主義的」

*2:「意識」以外のなにかであれば(なんでも)いいんでしょよーするに。

*3:ていうか工夫も芸もない分だけアレか。というかあれはあれで「単に認識論的」な議論なだけか。(・∀・)オトポイエンチス!