フーコーをすごい(ゆっくりとした)勢いで再読するスレ。

- 作者: ミシェル・フーコー,中村雄二郎,Michel Foucault
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1995/08
- メディア: 単行本
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- Acheologie du savoir, 1969
- III 言表と集蔵体
- 1 言表を定義づける
- 2 言表の機能
- 3 言表の記述
- 4 希薄性、外在性、累合
- 5 歴史的<先験性>と集蔵体
- IV 考古学的記述
- 1 考古学と諸観念の歴史
- 2 原のものと規則的なもの
- 3 さまざまな矛盾
- 4 比較に基づく事実
- 5 変化と変換
- 6 科学と知
ここでのフーコーの準拠問題が──(特殊)システム論に謂う──システム・リファレンス問題であることにひとたび気づいてみると、急激に視界が開けてきたきたきたキタ━━━━━━(°∀°)━━━━━━!、という感じでさくさくずんずんものすごい勢いで読めてしまう。<コミュニケーション/システム>の構成関係と<言表/言説>の編成関係と(に着目した限りで)の相同性は、『考古学』のほとんど最初から最後まで、非常に強い形で確認でき、予想どおりの箇所に予想通りの概念パーツが登場するので それはそれで一種の快感というかそんなこといってもしょうがないが。
たとえば、ルーマンが<person/心的システム>の区別を置く場所には、
「言表系列の<内側の主体/外側の主体>」という区別が置かれ*、ルーマンが「構造的カップリング」を置く場所には、
「ひとつの<おなじ対象>に関連するが相互に区別**される複数の言説領域」が置かれている。
「フーコーにおける<語る主体>の回復は注目されるところだ」(p.115)などと書き付けている。もうね ■■かと。「語る主体は言説の──(特殊)システム論に謂うところの──環境にゐる」って謂ってるだけでしょうに。
** 「システム・リファレンスの区別」と翻訳されうる。
だが、それと同時に残念な事にも気づく。
ルーマンが劣悪な著述家である事については衆目の一致するところであり、いまさら語るべき言葉もないが*1、私はといえば、フーコーについていえば「ルーマンよりはまし」だと思っていた。なんとなく。 だけどどうやら、あまりそうともいえないようだ。一方のルーマンは「システムは〜〜であり、コミュニケーションは〜〜である」と(肯定的かつシンプルに)断定口調でがんがん突き進んでいく(のが読んでいてムカつく)わけだが、他方のフーコーはといえば、「言説は〜〜でなく、〜〜〜でなく、また〜〜でなく、〜〜であり、言表は〜〜でなく、〜〜でなく、〜〜である。私は〜〜をやろうとしたわけではなかった。」と否定(=卓越化と言い訳)を大量に混ぜこみながら進んでいくというだけで、その否定が規定に役立っているかというと必ずしもそうは見えないことのほうが多く、それってつまりは話のはこびが冗長になってるだけじゃんよ、ということなのだった。
ただその卓越化戦略のおかげでフーコーは、ルーマンが受けたような類いの誤解を受ける事は少なかったかも知れない。よかったね。ていうかよかったのかそれは。(そのかわりに、別の誤解をされただけじゃねの?) まぁどっちもどっち、ということで。
さらにいえば「〜〜ではなく、〜〜ではなく」と語るフーコーは、一方では、同時代の「しがらみ」から己を切り離そうともがいており、他方では、自らが語ろうとしていることを表現する適切な言葉を見つけられずにもがいているわけだが、その両方の理由から、しばしば言わなくてもいい過剰な事を言ってしまい、また言うべき事を不適切な術語で表現してしまっていることにも気づく。
たとえば、「作者の死」とか「匿名性の空間」などと表現する必要のないところで──おそらくは同時代の諸意匠に対抗するつもりで──、そう述べてしまうことによって、抱え込む必要のない余計な負担を抱え込んでしまう。
- 「規則性は‥‥[言表の]出現の実際的な領野の特殊性を規定する」(p.219)
- 「一つの言表の規則性を他の言表の不規則性と対立させるべきではなく、他の諸言表を特徴づける他の規則性と対立させるべき」(p.220)
** フーコーが「言説の外在性」と言い得るのは、
- なにしろ「主観性」といえばそれは「内側」であるに決まっているわけだが
- 言説は「主観性」とは別の側である
といったことのすべてはさておき。
いくつかの例外を除いて、トリヴィアルな相同性が著作全体を通じて指摘できる以上、次の課題は、その例外の位置を見定める事、になる。そして、例外のうちのもっとも重要なものは、IIIの4と5(つまり「実定性」概念と「アルシーヴ」概念)。