涜書:フーコー『知の考古学』

フーコーをすごい(ゆっくりとした)勢いで再読するスレ

    • Acheologie du savoir, 1969
  • III 言表と集蔵体
    • 1 言表を定義づける
    • 2 言表の機能
    • 3 言表の記述
    • 4 希薄性、外在性、累合
    • 5 歴史的<先験性>と集蔵体
  • IV 考古学的記述
    • 1 考古学と諸観念の歴史
    • 2 原のものと規則的なもの
    • 3 さまざまな矛盾
    • 4 比較に基づく事実
    • 5 変化と変換
    • 6 科学と知



ここでのフーコーの準拠問題が──(特殊)システム論に謂う──システム・リファレンス問題であることにひとたび気づいてみると、急激に視界が開けてきたきたきたキタ━━━━━━(°∀°)━━━━━━!、という感じでさくさくずんずんものすごい勢いで読めてしまう。<コミュニケーション/システム>の構成関係と<言表/言説>の編成関係と(に着目した限りで)の相同性は、『考古学』のほとんど最初から最後まで、非常に強い形で確認でき、予想どおりの箇所に予想通りの概念パーツが登場するので それはそれで一種の快感というかそんなこといってもしょうがないが。
たとえば、ルーマンが<person/心的システム>の区別を置く場所には、「言表系列の<内側の主体/外側の主体>」という区別が置かれ*、ルーマンが「構造的カップリング」を置く場所には、「ひとつの<おなじ対象>に関連するが相互に区別**される複数の言説領域」が置かれている。

* あろうことか『言説表現の秩序』の訳者は、この箇所について、フーコーにおける<語る主体>の回復は注目されるところだ」(p.115)などと書き付けている。もうね ■■かと。「語る主体は言説の──(特殊)システム論に謂うところの──環境にゐる」って謂ってるだけでしょうに。
** 「システム・リファレンスの区別」と翻訳されうる。


だが、それと同時に残念な事にも気づく。
ルーマンが劣悪な著述家である事については衆目の一致するところであり、いまさら語るべき言葉もないが*1、私はといえば、フーコーについていえば「ルーマンよりはまし」だと思っていた。なんとなく。 だけどどうやら、あまりそうともいえないようだ。一方のルーマンは「システムは〜〜であり、コミュニケーションは〜〜である」と(肯定的かつシンプルに)断定口調でがんがん突き進んでいく(のが読んでいてムカつく)わけだが、他方のフーコーはといえば、「言説は〜〜でなく、〜〜〜でなく、また〜〜でなく、〜〜であり、言表は〜〜でなく、〜〜でなく、〜〜である。私は〜〜をやろうとしたわけではなかった。」と否定(=卓越化と言い訳)を大量に混ぜこみながら進んでいくというだけで、その否定が規定に役立っているかというと必ずしもそうは見えないことのほうが多く、それってつまりは話のはこびが冗長になってるだけじゃんよ、ということなのだった。

べつにルーマンよりも丁寧に議論をしてくれてる、ってわけじゃない。
ただその卓越化戦略のおかげでフーコーは、ルーマンが受けたような類いの誤解を受ける事は少なかったかも知れない。よかったね。ていうかよかったのかそれは。(そのかわりに、別の誤解をされただけじゃねの?) まぁどっちもどっち、ということで。

さらにいえば「〜〜ではなく、〜〜ではなく」と語るフーコーは、一方では、同時代の「しがらみ」から己を切り離そうともがいており、他方では、自らが語ろうとしていることを表現する適切な言葉を見つけられずにもがいているわけだが、その両方の理由から、しばしば言わなくてもいい過剰な事を言ってしまい、また言うべき事を不適切な術語で表現してしまっていることにも気づく。
たとえば、「作者の死」とか「匿名性の空間」などと表現する必要のないところで──おそらくは同時代の諸意匠に対抗するつもりで──、そう述べてしまうことによって、抱え込む必要のない余計な負担を抱え込んでしまう。

と同時に/そのあげくのはてに、上記のような「フーコーとて主体の問題を無視しているわけではなく、云々」といった勘違いな擁護(?)を呼び込んでしまう。
単に「意識 じゃなくて person について語っているのだ」っていえばいいでしょ、と本に向かってツッコむ私♪ ──実際。「作者」について、また「名前をもつということ」について、言説の編成に即して語りうる以上、事態を「死」とか「匿名」とかいった言葉で表現するのはまったく不適切(であり過剰)だろう。
「死」だの「匿名」だのをありがたがるひとは、単に、ポレミカルであることをありがたがっているだけでは♪
あるいはまた、言説領域を規定するのに、「規則性*」や「分散」*2といったこれまた不適切な──ものだと私には思われる──術語で表現してしまう。さらにはそれを「外在性**」などという言葉で表現してしまう。などなど。内側とか外側とか言うな。

* たとえば「規則性」という言葉は、「不規則性に対立するものではない」(p.129)と言われているところからわかるように、それ自体としてはほとんど没概念でしかない。その言葉が言いかえられている箇所をみると、そのことはさらに明白になる。
  • 「規則性は‥‥[言表の]出現の実際的な領野の特殊性を規定する」(p.219)
  • 「一つの言表の規則性を他の言表の不規則性と対立させるべきではなく、他の諸言表を特徴づける他の規則性と対立させるべき」(p.220)
一方で、これは、「ある言表を、その言表が属する言説と切り離さずに捉えた上で、他の言表──を、やはりその言表が属する言説と切り離さずに──比較せよ」という以上のことをいっていない(/いえていない)のだから、「規則」という言葉は言表と言説の構成関係以上のことを指しておらず、他方で、その構成的関係を「規則」という言葉で表現する事は、言表が特定のルールに基づいて産出されるかのような表象に読者を誘う限りで、非常にまずいはずである。
そしてさらに/ついでにいえば、もしも「法則」や「規則」という言葉を、通常の見方に従って捉えることを拒絶するならフーコーはそうしているようにみえるが)、そのその場合には単に、「規則に従う事」や「規則に基づいて産出されたもの-と-当の規則-との-関係」についての問いが新たに生じてしまうだけであり、しかもこの問いを吟味することは、結局、言表と言説の構成関係フーコー自身の表現をつかえば「言説のフォーメーション」)についての吟味と異なるものにはなり得ない。
さらに言いかえると。この事態を「規則性」と述べてしまう事によって、フーコーはここで立ち止まってしまってしまっているようにみえる。その「規則」こそ、「言説の領域」の規定に際して吟味されるべきものであるはずなのに。
** フーコーが「言説の外在性」と言い得るのは、
  • なにしろ「主観性」といえばそれは「内側」であるに決まっているわけだが
という強力(でそれ自身恣意的)な前提に基づいたうえで
  • 言説は「主観性」とは別の側である
という仕方で区別を介した指示を行う限りにおいて、である。しかし「内側」という概念に「主観性」という含意が書き込まれているわけではないのだから、少なくとも、そういう前提をとっていない読者(私を含め)はここで多少なりともまごつくことになる(、というのはもっともなことである)。フーコーが採っている負荷のかかった前提を避けて、<ある区別の──他方ではなく──指し示しているほうの一方を「内側」と呼べ>という方針に従うなら、(この著作がもっぱら言説のほうを問題にしている限りにおいて)当然<言説/主観性>という区別においては前者のほうが「内」になる──そして主観性のほうが「外」になる。(アタリマエですが.....)
ちなみにルーマニ屋のひとやエスノのひとは、実際、そのような仕方で「内的」とか「内側」とか「内在」とかいう言葉を使っている。
結局、区別のどちらのほうを指し示しているのかを明示できないラベルなら、そんなものは役に立たないだけでなく、混乱のもとになるだけなのである。なので内側とか外側とか言うのはヤメれ、と。
しばしばみられる事がここでも生じているだけなのだが、<内/外>の区別は、少し話が込み入ってくるといつもたいてい(↑こんなふうに)ほとんど役に立たないのだから、やめたほうがいいと思うわけです。「外の思考」とかいうのもヤメれ。ついでに、ルーマニ屋もエスノのひともヤメれ、と。意味ないし。
それに、ひとたび誰かが「俺は内側だ」とか「外側だ」とか謂うと、すぐに続けて「俺のほうがもっと内側だもんね***」(あるいはもっと外側だもんね」)とかいいだす香具師が出てくるだけなのだった。脊髄反射なひとに餌を与えないでください。おまえは単に「背後取りゲーム」*3をやりたいだけちゃうんかと。というか、そのテの「背後取りゲーム」が始まったとたん、当初の準拠問題──システムリファレンス(とか記述のレリヴァンス)とか──が どっかに吹っ飛んでしまい、「はたしてその記述は事柄に即して適切な記述になっているんでしょうか」というのを吟味しましょうよ、という話もどっかにいっちゃうだけなのよ。......(´・ω・`)
*** ex. ラディカル・リフレクシヴィティ(© ポルナー et al.)


といったことのすべてはさておき。
いくつかの例外を除いて、トリヴィアルな相同性が著作全体を通じて指摘できる以上、次の課題は、その例外の位置を見定める事、になる。そして、例外のうちのもっとも重要なものは、IIIの4と5(つまり「実定性」概念と「アルシーヴ」概念)。

*1:嘘。

*2:「分散」については再考中。「distribution」かとおもったら「dispersion」だった。

*3:© 馬場靖雄(unpublished.)