切ない。どうしたものか。(いや、どうしようもない。その筋の方、親切な営業ご指導を。)
■ [武田徹]6/1記(旧ブログより移動)
ジャーナリズムが硬直した権力関係の地勢図を描きがちなのは、権力分析の道具を持たないからでもあるだろう。たとえば、ぼくは『調べる、伝える、魅せる!』の中でエスノメソドロジーの会話分析の方法を、取材における権力構造の分析に使うことを提唱した。そのときは社会の権力構図の分析以前に、ジャーナリズム自身の権力に注意深くあるためにそんな分析の導入が必要だとされていたが、この方法はそのまま社会の中の言葉によるやりとりに応用が可能で、一般的な権力分析の調査解析にも使えるはずだ。ジャーナリズム論は印象批評的なものが多く、せいぜいが統計調査を盛り込む程度で、科学的分析理論を持ち出すものは少ない。そこはまさに致命的であって、ジャーナリズムはもっともっと(自然・社会・人文科学の方法を導入して総合的かつ)科学的に解剖されるべきだと思うし、また理論論な分析の道具を自らの武器としてゆくべきだと思う。理論的なジャーナリズム批評とジャーナリズム実践を同じ地平で繰り広げてゆく、そんなことが教育の場で出来ればと思うのだが。ジャーナリズム論の文脈の中で、たとえばエスノメソドロジーの理論を引用するのが見られるのは珍しいと自負します(もちろんエスノメソドロジーって何だという人にもきちんと説明しますのでご安心を)ー武田徹ブログよりー
テープ起こしをおやりになるプロは“エスノメソドロジー”のことはよく分かっていると思いますが、『調べる、伝える、魅せる!』の会話の分析(68頁〜)で、ぼくのような素人にも概略分るように説明してくれている。しかし、滞りなく続く自然な会話の進行法則に、往々にして違反する会話者が登場する。
前の話が終わっていないのに割り込んできたり、指名されていないのに話を始める。あるいは逆に指名されているのに沈黙をもって返す……。こうした逸脱が起きるのは権力関係の反映だと考えられる。
「会話分析」を使うというのはすばらしい(のでどんどんやっていただきたい)が、こうした↑「割り込み有るところ権力あり-分析」を「エスノメソドロジー的」とは言わないと思う。