かねたさんにコメントいただきました。ありがとうございます。
が、せっかくなので、なんかもうちょっと面白いことかいてください。
さしあたり最初の部分についてのみコメントしておくと:
フーコーはそもそも(特殊)社会システム論的な意味でのシステム概念というものは念頭においていなかったと思われ、むしろ彼が認識のベースにしていたのは構造主義的─ポスト構造主義的構造概念であったと思われるので、フーコー的「言説」概念(およびその構成要素たる言表概念)をシステム論的に解釈することはそもそもできるのだろうか?ということが疑問になったりする。
- フーコーが「システム概念」を念頭においていたか否かは、私の議論(の妥当性)にまったく関係がないです。
- しかも、「システム」も「構造」も、論者によって恐ろしく異なる・多用な仕方で使用される言葉なのだから、「システムか、構造か」という問いの立て方には意味がない*2です*3。
- 「そもそもできるのだろうか?」という問いをたてるのは余計。だって、私が実際いまここでやっている(あるいはやろうとしている)のだから、その議論の妥当性のみを問題にすればよいだけのこと。ちなみに、私が狙っているのは「言説分析をシステム論的に解釈すること」ではないです。そうではなく──金田さんの言葉につきあう形であえて定式化すれば──「社会システム論-と-言説分析との間には、そこから利得を引き出せる どんな差異があるか」です。
次の段落は、私には問題含みに思える箇所ですが、これについては帰宅してから、ということで。
- [11] とりあえずぼんやりと考えていることを書くと、このフーコーとシステム論の差異というのは、言説あるいはコミュニケーションの帰属先をどこに設定するのか、という点に存在するんじゃないだろうか?
- [21] フーコーの場合、言説の帰属先は全体社会ということになり個別のシチュエーションでの発話や会話は言表ということになるが、システム論的にはコミュニケーションはシステムのコミュニケーションとしてのみ記述される。
- [22] フーコーの言説概念が構造(=社会)全体の言説を示しているのに対して、システム論的なコミュニケーション概念は「全体社会」のコミュニケーションを指示しているのではなく、あくまでもそれぞれの社会システムのコミュニケーションだとして解されている。
- [23] このような言説概念とコミュニケーション概念との違いが何に基づいているのか、といえば、それはおそらく構造概念とシステム概念の違い、という点に基づいていて、どちらの視座から「社会」を認識し理解するのか、ということが鍵となっているように思う。
【追記】20041113
ひでおさんにもコメントいただきました。ありがとうございます。
■ [MF][Sys]ちょっとゆってみるテスト。
構造主義とシステム理論の間にはソシュールとベイトソンをかませてみる。
フーコーとルーマンの間にはニーチェをかませてみる。
というのでどうよ?
↑は言ってみるテストだけど、テストとしても言えないことはミクシで書いてみるテスト。
一度しかない人生ですので、なにかもっと面白い事をちょっとでもゆってみるテストをしたほうがよいような気もしますが、まぁ他人の人生だからいいと思います。。
*1:さらにいえば、私のように、(特殊)社会システム論に大きくインスパイアされつつも、「システム」という語の使用を自らに禁じている人だっているw。(私がこの語を使うのは システム論に言及する時だけ と な っ て お り ま す。)
*2:にもかかわらず、そこでガンバってブチageちゃったりするお調子者もいるわけだが:ex. ASIN:462302976X&ASIN:4771002355。意味ないっす。
*3:ちなみに、ぜんぜん関係ないけどついでに述べておけば、構造主義者で(情報-コミュニケーション-科学的な意味での)「システム」概念(や「複雑性」概念)にちゃんと目配りしていたひとの例としては、ヤーコブソンとレヴィ=ストロース、ビッグネームふたつを挙げておくのがよいかと思います(ので挙げておきます)。「構造主義」と「システム論」って、そんなに違うもんなんですかね。私には、「大陸」と「北アメリカ」における同時代的-対応物のように思えますが。「構造主義」発祥の地ロシアに生まれ、レヴィ=ストロースに「構造主義」を教え、アメリカでは情報科学者と共同研究していたヤーコブソンのことを考えてみれば.....どうでしょう?。