社会学の教科書について

c鈴木さん と いなばさんにいただいたコメントを受けてのメモ。

スレ一覧。
http://d.hatena.ne.jp/demian/20041121
http://d.hatena.ne.jp/rna/20041122#p1
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041122#1101099991
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041122#c
http://www.asvattha.net/clips/blosxom.cgi/Studies/Sociology/0411231334.htm
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041124#1101278529
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041124#c
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20041125
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041125#1101359990



http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=400


c鈴木さんといなばさんが共通に指摘してる事があって、それは、「ギデンズとルーマンの関係は、ルーマンに対してギデンズが【基礎】となっている、というようなものではない」ということ。これはおっしゃるとおり。なので、この↓発言は嘘ですごめんなさい。酒井曰く:

それはあたかも初等解析学を知らないのに留数定理を理解しようとしているかのような趣き....。

こんなこと↑ぜんぜん信じてないのに「あなたこう書けば納得するでしょ」とおもって書きました。すいませんすいません。

初学者向けルーマン紹介本読んでる暇・金・好奇心があるなら他の何かをよんだほうがいいのでは? と言いたかったのココロ。

突っ込まれたので、その突っ込みを前提にしてこう書き換えましょう。

  • 【A】社会学は、ギデンズを読んで「だめだこりゃ」と思ってしまった方の為に、オプション(様々のうちのマイナーなひとつ)としてルーマンをご用意しております*。
  • 【B】社会学は、ルーマンを読んで「だめだこりゃ」と思ってしまった方の為に、オプションとして、ギデンズそのほかをご用意しております。

【A】と【B】は、ほぼ対称にみえる命題ですが、そうではない、というのがいいたいこと。そのポイントを(論証抜きで)いえば。

  • 【A】と【B】では、【A】から出発するべきである。なぜなら、
    • ギデンズとルーマンは、両立できないが、
    • ルーマンを読まずともギデンズは読め、
    • 両立できないことを理解するには、ルーマンを読む前に「ギデンズ的なもの(=普通に社会学的なもの)」を、すでに知っている必要がある

からです。

* 子犬本(だったか?)のなかで、馬場靖雄さんが、すでにこの趣旨のことを述べていたと思いますけどー。


この点については、以上。


稲葉さんのエントリは、私のこの↓疑問に対して、一つの答え(というよりも、一つの記述)を与えていただいたことになっています。:

「全国のどこに行っても、その人が社会学を専攻しているならば、その人の部屋には『社会学』がある」という次第には──私の知る限りまったく──なっていませんでした。[‥‥]
おそらくここに、社会学という学問disciplineがおかれている、非常に奇妙な──という言葉に差し支えがあれば、非常に特殊な──事情を見るべきかもしれないのですが、それがどういうことであるのか、私にはわかりません。

いなばさん曰く:

社会学の現状においては、Cellはありえないし、経済学のようにミクロ・マクロの基礎理論プラス計量をまずやらせる、というプログラムも組めないし、政治学のように「とりあえず議会制民主主義を押さえとけ」という風にもできないし、法律学のように「とりあえず憲・民・刑、とりわけ民法(総則と債権各論あたり?)!」ともいかないし、また物理学のように「力学」「電磁気学」「熱・統計力学」「相対性理論」「量子力学」というかっちりした講座を組むこともできない。
結局現状ではギデンズのようなやり方しかない。

この点について一緒に考えていただける方がほとんどいなかったので、私にとってはありがたいことでした。
その上で、さらに同じ方向で突っ込んでみると、私の疑問はこうなるわけです:

それで、社会学はなぜそうなんだ。



(私が学部生だった時に)社会学系の学生たちが、ギデンズ『社会学』についていっていたのは、「総花的で底が浅い」というようなコメントでしたが、それこそ私は「なにいってんだ、【現状ではギデンズのようなやり方しかない】ではないか。その現状のほうについて君たちはどう考えておるのか。」(大意)と突っ込んだわけだったのでした。(しかしまったく議論になりませんでしたが*1。)

ただし──いま思えば──彼/女たちは、私が「だから社会学はだめなんだ」と揶揄したくて逝っていると勘違いしていた可能性は大いにあります。私の方は【かっちりした講座を組む】ことができる学部に所属していたので、その高見から(ハァ?)言っていると思われたのかも知れません。
だとすれば彼/女たちは、社会学的に充分訓練=洗練されていなかった、のだと思われますが。


社会学についてどのような態度をとるかは、この↑問いについて、どんな↓解答を予想するかによって、かなり異なるものになるに違いありません。

  • いつかは(物理学・経済学などと同様な仕方で)【かっちりした講座を組む】ことができるようになるにちがいないし、そうすべきだ
  • そもそも【かっちりした講座を組む】ことなどできないものなのである
  • いつかは【かっちりした講座を組む】ことができるようになるにちがいないしそうすべきだが、それは経済学がそうであるようなものとは意味・やりかた がことなるのだ


私自身は‥‥‥ 予想できないでいますが。

が。対比のために持ち出される学問のほうを変えてみる、という道があることは、すぐに思いつきます。こういったところでこそ、フーコー先生の「ハードな科学ではない-いい加減な科学」についての議論が参照されるベところであるような気もするのですが、肝心の先生が何を仰っちゃってくれてるのかよわからんわけで(苦笑)........困りものですなぁ。


ちなみに、とある歴史家のみたてによれば、社会学のおかれている状況は次のごとくであるとの事。私はどちらかといえばこうした見解に魅力を感じますが、残念ながらこの点について、他人を説得できるほどによく考える事はできていません:

[もしも、さまざまな社会的事実を普遍的に取り仕切るような秩序が存在するならば、そしてまた、歴史学社会学が、そのモデルを構築できるとしたならば、] 歴史と社会学は科学の仲間入りをし、[科学に]口出しが可能になろう。いや、口出しまでいかなくとも、予見が可能になろう。歴史-と-社会学は、それぞれ、地球の歴史-と-一般地質学、

太陽系の歴史-と-天体物理学、或る与えられた言語の音声学-と-音韻学

に似たものになるだろう。歴史は社会学諸理論の応用ということになって、双方は叙述であることをやめて、説明になるはずである。ところが、不幸なことに、この夢はあくまで夢でしかないことは周知のとおりである。事実の秩序は存在しない。いつも同一で、いつも他の事実をとりしきっているような秩序など存在しない。歴史と社会学は、包括的な叙述でありつづけるように運命づけられている。いやむしろ、こう言おう。歴史だけが本当に存在する。言いかえると、社会学は、永遠ノ財産をコード化しようとするむなしい仕事にしかすぎない。というのは、この永遠ノ財産という専門的経験は、具体的ケースしか知らないし、恒常不変の原理──それだけが、この経験を科学にしあげるのだが──なるものを含まないからである。

それではなぜ社会学などという学問があるのか。

その効用は歴史学者が使う大言壮語の効用よりまさっているが、どうしてこんなことになるのか。

それは次のような事実に由来しているのである。すなわち、歴史は託された仕事を全部やりきるようなことはない。社会学にも自分に代わってやるべき仕事を──目標を越えてしまってもかまわないという条件で──残してやっているということである。

歴史は、日々の出来事という目で物事を追うことに限定されているから、現代史は現代文明における出来事になっていない事柄の叙述を社会学にゆだねている。歴史は、古い伝統、つまりナレーションによるナショナルな歴史という伝統に拘束されているから、過去についての歴史は、ひとつの時空連続体(「十七世紀のフランス」といったように)にそった 物語[レシ] にもっばら執着する。そこで、過去の歴史は時間と場所の一致をあえて拒否する場合はまれであるということにたる。そして、あえて比較史またはそんなふうに呼ばれるようなもの(「時代を越えた都市」といったように)になろうという場合もまれである。ところで、歴史が「完壁な」ものであろうと腹をきめ、完璧にあるべき姿になろうと決意したら、社会学など無用の長物になってしまうことを確認してもよいだろう。
 たしかに、歴史の合法的な領土の一部分が社会学という名で位置づけられていることなど、だいたいどうでもよいことかもしれない。そのようなことにめくじらを立てるのは、まさに同業組合かたぎであろうから。この配分の誤りがいくつかの帰結をもたらしていることが、不幸といえば不幸なのである。すなわち、歴史は十分つとめを果たしきっていない(時間と場所の一致が、いつでもその所有権が認められてきた領土のなかでさえ、歴史の視野をせばめている)のに、社会学は精勤しすぎているのである。社会学は、自分が名なしの歴史であることを認めたことがなかったので、どうしても科学を作らなければならないと思いこんでいる。同じことが民族誌学*にも言えるかもしれない。

社会学擬似科学である。それは歴史の自由を束縛するアカデミズムのならわしから生まれた。社会学批判は認識論が手を染めるべき任務ですらない。言いかえると、それは、ジャンルとしきたりについての歴史が手を染めるべき仕事である。

最終的に完壁なものとなった歴史-と-形式的人間科学(いまのところそれは実践学**の顔をしている)とのあいだには、いかなる科学の席もない。完壁な歴史になることは、歴史の真の使命である。それには、汲めどもつきせぬ未来が約束されている。なぜなら、具体的な物事を描くことは、永遠に終わることのない仕事だからである。[下記著作、p.481-3]

* 人類学のこと
** 経済学のこと

歴史をどう書くか―歴史認識論についての試論 (叢書・ウニベルシタス)

歴史をどう書くか―歴史認識論についての試論 (叢書・ウニベルシタス)



【追記】20041128 19:13

ちなみにぼくは相談されたときには、「とりあえず古典は読むな」ということを言っています。

ヤヴァイ。。。今のとこ古典(と呼ばれていそうなもの)しか読んでいない。

yutacake さん、気にしないでください。
hidex氏がこんなことを安んじて言えてしまうのは、一方では彼の言う「古典」の範囲がせますぎ、他方では彼がまだ、同業者に向かって「私のこの仕事がどういう点で 社会学的に面白い=価値がある かというと‥‥」というアカウントを迫られるような仕方で仕事をした事がないから、なのです。むしろここは──hidex氏よりも──、稀代のフィールドワーカー、ハワード・ベッカー大先生の言葉に耳を傾けるべきところか、と:

論文の技法 (講談社学術文庫)

論文の技法 (講談社学術文庫)

*1:何か?